2010年8月15日
佐々木 和也兄 「赦し」
使徒13:38〜39
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1、はじめに
今日は「赦し」について考えてみたいと思います。8月15日、この時期、赦しとか和解とかいうことを考える良い機会ではないかと思います。
戦争によって、日本は赦しがたいことをしたし、赦しがたいことをされました。国と国との約束によっては一応和解が成立したことになっています。
しかし、個人の感情は違います。韓国や中国などアジアの国々から今もって戦後補償のことや謝罪について言われているのはそれをよく表しています。また、広島、長崎のことだけを考えても、原爆を落とした国に対する被爆者/遺族の感情はいまも続いていますし、これからも続くと思います。
本当に人間に赦しは可能なのでしょうか?怒りの連鎖を断ち切ることは出来るのでしょうか?戦争によってされたことを赦せるのでしょうか。してしまったことは赦されるのでしょうか。
2、神の赦し
それでは、聖書では赦しについてなんと言っているでしょうか。2つの箇所を見てみたいと思います。
*ローマ12:19〜21
聖書は、怒りや復讐心をもつこと自体は否定も肯定もしていません。こう言っているのです。怒りや復讐心は神にゆだねなさい。任せなさい。なぜなら、神はすべてをご存知で、すべてを支配しているからです。逆に善をもって悪に打ち勝つように勧めています。「赦し」の前には、持っている怒りや憤り、復讐心などを神にゆだねる、預けることが必要なのではないでしょうか。
*マタイ18:21〜35
ここで言われていることのポイントは、一つは、赦しに制限はない、ということです。7の70倍、これは文字通りではなく、どこまでも、制限なく赦しなさい、と言われているのだと思います。
もう一つのポイントは、赦しは無条件である、ということです。王は(神は)家来の借金を帳消しにしました。それは家来からなんの対価も求めることなく、すべて帳消しにしたのです。
3つ目のポイントは、この赦しは無限大である、ということです。家来の借金は1万タラントンであったと言っています。その当時のヘロデ・アンティパス王の国の歳入が200タラントンだったと言われています。1万タラントンは、なんとその当時の国の税収の50年分に相当する金額になります。なんとも荒唐無稽な金額です。
この例え話は比喩ですから、家来の借金は私たちが負っている罪であると言い換えることが出来ると思います。私たちの罪はそれ程のものだ、自分自身ではどう引っ繰り返っても返済することができないような負い目、借金があるんだ、ということを示していると思います。それを、神は一切帳消しにしてくださるのです。それも無条件に、です。こんなことはあり得ない、それくらいのことです。罪とはそれほど重いのです。そして、それ以上に、神の赦しは高く深いのです。
なぜ、そんなことが可能なのでしょうか。なぜ、赦しが可能なのでしょうか。
私たちが忘れてはならないことは、神の赦しには犠牲が伴っているということです。イエス/キリストの犠牲があるのです。罪のない、神の子の犠牲があったのです。命の犠牲です。それが、赦しの源です。
(ローマ5:6〜11)
3、本当に赦しは可能か?
でも、本当に赦すということは人間にとって可能なのでしょうか。自分自身を赦すことは可能なのでしょうか。
ここに、一人の人物を紹介したいと思います。私の尊敬する人の一人です。光市母子殺害事件の本村洋さんです。人を赦すこと、そして自分自身を赦すことの困難さを十分味わった、そして現在もその途上にいるのではないかと思う、そういう人物です。
事件は、1999年4月14日に起こりました。事件の詳細はここではお話ししませんが、本当にひどい、むごい事件でした。帰宅した本村さん本人が第一発見者でした。その時の感情は私たちの想像を絶するものだったと思います。
まず初めに本村さんを襲ったのは、強烈な自責の念だったそうです。自分に無力さ、家族を守ってあげられなかった悔しさが湧き起こって来たそうです。自分を赦すことが出来なかったのです。
事件から4日後、犯人が逮捕されました。それは当時18歳の少年でした。逮捕後、本村さんの中には、新たに違った感情が湧き上がって来ました。犯人に対する憎しみです。
事件から一年後の3月、山口地裁で無期懲役の判決が出されました。判決が出されたその当日、本村さんは記者会見を行いました。その中で一番印象に残っている言葉があります。感情を押さえ切れずにこんなことを言ったのです。「遺族だって回復しないといけないんです、被害から。人を恨む、憎む、そういう気持ちを乗り越えて、また優しさを取り戻すためには…、死ぬほどの努力をしないといけないんです。」そう言ったのです。それを聞いたとき、胸が押しつぶされそうでした。そんな気持ちを、どうしたら解決できるのか、自分には安易なことは言えないな、そう思いました。
その後の裁判の推移は皆さんご存知の通りです。
本村さんのことを思うと複雑な思いがします。自分自身を赦すことが出来たんだろうか、犯人を赦すことが出来たんだろうか、そして優しさを取り戻すことが出来たんだろうか。
赦しには痛みが伴います。本村さんはそう教えてくれます。赦しには時間がかかる。そう教えてくれます。完全に赦せるだろうか?そんな疑問も湧いてきます。
5、まず神が赦してくださった。信仰によって。
人を赦す、そして自分自身を赦すということ、和解するということは簡単なことではありません。困難を伴います。時間がかかります。転んでは起き、起きては転ぶの繰り返しかもしれません。
しかし、もういいんだよ、十分だよ、あなたの痛みや悲しみ、苦しみは分かっているよ、と言ってくださる方がいると知ったなら、そんな方がいると信じるなら、私は必ず赦すことができると確信しています。なぜなら、その方は、自分の命を捨てるほどに私を愛してくださる方だからです。赦してくださる方だからです。この世の中にたった一人でもいい、それほどまでに自分を愛してくださる方がいる、そう信じるだけで勇気が出ると思いませんか?
本当の意味での赦し、和解は、そんな方がいるんだ、そう信じることから始まると思います。
August 15, 2010
“Forgiveness” Acts
13:38-39
By Kazuya Sasaki
(English version: Later)
2010年8月22日
恒枝 篤史兄 「バルナバのように」 〜信じることこそ、人を育てる〜
使徒言行録15:36〜41
音声はこちらから
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今日の聖書箇所、使徒言行録15章の最後の部分に、パウロとバルナバの激しい衝突が記されています。
そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。(39〜40節)
「意見が激しく衝突し」とあります。別行動をとることが解決策となったようですから、かなり激しい議論があったのでしょう。彼らは別々の道をとることとなりました。まさに、一難去って、また一難な訳ですが・・・。バルナバは、マルコなんて見捨てて、パウロといっしょに宣教旅行に行った方が良かったのではないでしょうか。バルナバは、どうしてそこまでマルコにこだわって、マルコを連れて行きたかったのでしょうか。
この問いに答えるために、バルナバが、まずどういう人物であったのかに、焦点をあてて考えてみたいと思います。そして、このバルナバという人物から、特に「人を育てる」という視点で考えてみたいと思います。
August 22, 2010
"Barnabas, the
Encourager" Acts
15:36-41
By Atsushi Tsuneki
At the end of Acts 15, Luke wrote a major dispute between
Paul & Barnabas.
Out of a crisis, another one
waits. Paul
and Barnabas
began to make plans to revisit the churches they established but
they had a major dispute. Barnabas
said, "Let's take John Mark with us again." But Paul said that Mark had let them down the last time and he was not going to take Mark. The two best friends disagreed so strongly
that Paul chose another
traveling
partner, Silas, and two men
went their separate ways.
Wasn’t it
better for Barnabas to
abandon
Mark and go to the
mission trip with Paul? Why did Barnabas
want to take Mark so badly? So now, we like to focus on what kind of person Barnabas
was.
And we’d like to
focus on especially
Barnabas
from the viewpoint of
“nurturing
others.”
2010年8月29日
賛美礼拝(恒枝兄)
Praise Worship (by
Atsushi Tsuneki)
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