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5月の礼拝の説教です
 

 

5月3日
恒枝篤史兄弟 「すべての人のもとに遣わされるために」
 聖書箇所 ヨハネによる福音書13:1〜17

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 ヨハネによる福音書13:1-17には、イエス様が、弟子たちの足を洗われた出来事が登場します。主イエス様が、自ら弟子たちの足を洗われた、という行為の大きな意味。それは、イエス様ご自身の、「模範」です。「しもべの姿」としてのキリストです。「私たちクリスチャンが、何をなすべきか」、その答えを、イエス様は愛の模範をもって示しておられるのです。

 私たちが「神を愛する」、ということは、難しい時もあるけれども、ある意味で、難しいことではないかもしれません。神様は、うそをついたり、陰口を言ったり、傷つくような言葉を言ったり、私たちを裏切ったりすることはないからです。確かに、私たちは、人に対しては思う「いやだなー」という気持ちを、神様に対して抱くことはないでしょう。しかし、「人を愛する」、と言うことはどうでしょうか。

 私たちの敵である悪魔は、人のうちのほんの一部の、「いや〜な部分に」目を向けさせてくる、ということはないでしょうか。特に、愛し合うべき教会においては、そこを狙ってくるかもしれません。こんなに、いい部分を持っている人の、ほんの一部の部分に目がいってしかたがない。私たちは時々、目がくらまされて、その人といえばその「問題」、と考えてしまうことはないでしょうか。

 しかし、10節で、イエス様は言われます。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」つまり、「足を洗いさえすれば全身まで洗う必要はない。それで充分だ」、と言われるのです。人の汚い足が、「全身」であるかのように思うのですが、本当はそうじゃない。私たちは人の汚ればかりに目が行ってしまいますが、他にも清い部分、良い部分もいっぱいあるわけです。どんなに罪人のように見える方にも、必ず神様が与えてくださった賜物や良い物があるわけです。ですから、「おまえの足、くせんだよー」って言うのではなくて、「あの人の足くさいから、全身くさいよ」って言うのではなくて、「その足を洗い合いなさい。受け入れ合いなさい。いたわり合いなさい」、とイエス様は言っておられるのです。

 「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」(エフェソ6:6-7) そうです。私たちは人を通して主にお仕えするのです。

 「すべての人のもとへ遣わされる」 これが、水戸教会の2009年度のテーマです。イエス様がこの世に来られたのは、私たちに「仕えられる」ためでなく、「仕える」ためでした。私たちは、まずイエス様に最も汚い部分を洗ってもらう。そして、きれいに洗って頂いた、この足で主の道を歩みつつ、今日もすべての人のもとに遣わされていきましょう!

 

5月10日
小幡幸和兄弟 「交わりの喜び」
 聖書箇所 ヨハネによる福音書15:1−11

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 今から100年前のロンドンでの話です。当時のロンドンでは、貧しく身寄りのない子どもたちが街にあふれていました。ある紳士が通う道にいつも物乞いをする少年がいましたが、血色がよくいつも生き生きした顔をしていました。なぜ、貧しいのにそんなに元気なのか知りたいと思ったその紳士は、少年の後をついていきました。少年の家にはその少年のほかにもう一人足に障害を負っている少年がいました。その友達の分まで少年はパンをもらっていたのです。どうしてそこまでがんばって友達の分までパンを貰うのかを聞いたところ、その少年は、「仲間のいない暮らしなんてつまらない、こいつがいるから楽しいんだよ。」と答えたそうです。 

 私たちの所に命のパンを運んだくださったのは、イエス・キリストですが、その結果どうなったかは今日の説教の個所であるヨハネによる福音書15:1−11に記述されています。5節には、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊に実を結ぶ。」、11節には「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」とあります。

 ブドウの木の譬が枝である私たちと幹であるイエス様を表しているわけですが、つなげているもの、それが「交わり」です。神様が私たちに近づいてくださることにより「交わり」が生まれ、その結果「喜び」が生まれるのです。今朝の話は交わりの喜びです。交わりの喜びは神様と私たちの交わりから生まれますが、ちょうど十字架のようにこれを天からくる縦の交わりとすれば、信者同士の横の交わりもあるのです。

 私が水戸教会に通い始めたのは今から約11年前でした。やがて9年ぐらい前から副伝道者として仕えはじめるようになり、その時にいまの妻を知ったのですが、今日の説教で、真っ先に思い浮かんだのは交わりからくる喜びです。いままで水戸教会での交わりを通じて多くの方からたくさんの喜びをいただいてきました。

 別の言い方をすると、副伝道者になったころはまだ30歳の若輩者でしたが、母のような存在の姉妹や、兄や父のような存在の長老の方々にいろいろな個人的なご指導をいただき、、9年間神様や水戸教会の兄弟、姉妹たちに育てられてきました。またセルグループの活動を通じ、一緒にさわいだり、悩んだり、アメリカ、カナダ、エルサルバドル、ドイツ、オランダ、台湾、韓国、インドネシア、タイ、フィリッピンなどといろいろな国の方々と交わりが持てました。

 私が水戸教会を去るにあたって、神様が私に与えてくれた最大のプレゼントは交わりの喜びであるということができると思います。

 また一方で、人生はいつも喜びばかりではないということを教えられたのも水戸教会です。私が副伝道者だった時に、伝道者の鈴木政夫兄弟の説教で「苦難におけるクリスチャンの交わり」というのがあったと記憶していますが、その説教のポイントは「本当のクリスチャンの交わりとはお互いの苦しみと重荷を負いあうものである」というものでした。自分や家族を襲った痛みや不幸に悩んでいる方もいますし、人間関係のもつれがある人、教会を去る人、いろいろな人がいます。また私自身も教会の伝道者としての重責に押しつぶされそうになる時もありました。

 つまり楽な人生を送っている人はいないのです。苦難の時はどうしたらいいか?今日の説教の個所である、ヨハネの福音書の15章4節にあるように「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」、また9節には「わたしの愛にとどまりなさい」とあります。つまり、どんなに苦しいことがあっても、神様との交わりを持ち続けなさいということだと思います。

 いまから13年前に私が神学校で神学と哲学を学んだ時の先生である、ジョン・ヒックスさんは今50歳ぐらいの人ですが、それこそ「不幸のデパート」のような方です。若いころ結婚した奥さんがちょっとした病気で入院したはずが、事故で亡くなり、その後再婚したのですが、長男に障害があることがわかります。この障害は成長するに従って知恵遅れになり、同時に体の機能が次第に衰えていくというものでした。当時ジョシュア君は小学生でしたが、学校へのスクールバスに付き添う中でジョシュア君がお父さんの目の前で友達に罵声を浴びせかけられ、馬鹿にされたことがあったそうです。ヒックスさんは神様に怒りをぶつけたのですが、神様の応答は「私も同じ思いをしたのだよ。」というものでした。今から数年前にジョシュア君が亡くなるわけですが、今度は再婚した奥さんがヒックスさんのもとを去るという出来事が起きました。ヒックスさんは「私は息子の墓にはいかない。黙示録にあるように、教会の礼拝では私は息子と一緒に神様を礼拝しているわけだから。」とおっしゃっています。

 つまり、今日まだ見えない神様を信じているのは来るべき天国での礼拝へとつながっているわけです。また、兄弟姉妹が集まって礼拝するということにも大きな意味があると思います。兄弟、姉妹との交わりを通じて、礼拝に参加することによって、自分の肉体と精神の疲れがいやされます。今後、わたしたちは日本を離れ、わたしは6月に、また家族は7月末に渡米するわけですが、これからもどこにあっても神様を礼拝し、どこにいても礼拝を通していつも十字架を思い出して神様と兄弟とつながっていきたいと思っています。

5月17日
マーク・ハンコック兄弟 「信仰者のコミュニティ」
 聖書箇所 使徒言行録2:42〜47


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 今日は水戸教会の共同体(Community)について皆さんにお話ししてみたいと思います。教会は、完璧な人の来るところでしょうか?そうではありませんね。完璧な人は教会には来ません。水戸教会はいつも「工事中」の霊的な共同体なのです。今日の聖書の個所を見てみましょう。42節にあるように「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」とあります。ここでは、四つのことが強調されています。1.「使徒の教え(聖書の勉強)」、2.「相互の交わり」、3.「パンを裂くことこと」、4.「祈ること」です。これら四つのことについて話してみたいと思います。

 まず、聖書の勉強ですが、わたしたちも、世界のほかのクリスチャン同様日々聖書を勉強しています。聖書はたえず学ぶ必要があります。なぜでしょうか?第二テモテの3:16-17には「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義を導く訓練をするうえに有益・・・」とあります。聖書は霊的な食べ物なのです。聖書は、日常生活を送る上でのマニュアルではありません。「神の霊」の導きのもとに書かれた本なのです。信じて読まないと、神様の導きがありません。私たちが他の人を助けるするのは、その人のためにするのですね。聖書から神様の愛という霊的なビタミンをもらえば、他の人にも与えられるのです。

 次は「相互の交わりです」。言い換えると「信仰者と時間を共にする」ことです。この教会でもいろいろな相互の交わりがあります。セルグループの活動、ホームレスのサポート活動、婦人のキルトや誕生日カード、衣類の献品によるサポート活動、火曜日の日本語クラス、掃除、夏キャンプ、ホストファミリー、聖餐の準備や花当番など。へブル人への手紙10:24-25にあるように、「互いに愛と善行に励むように心がけ」ということで、つまり教会に積極的に来て自分の興味ある活動に参加することだと思います。

 次に「パンを裂くこと」です。1世紀の初期の教会は、家の中で少ない人数で交わりと清算をしました。私たちもある人数で家の中で集まることもありますが、たくさんの人たちで集まるともっと励まされます。

 最後のポイントは「祈ること」です。フィリピ4:6に、「感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神様に打ち明けなさい」とあります。つまり心にあることの分かち合いです。

 それらを通じた私たちのゴールはなんでしょうか?それは使徒言行録2:44にあるように、「信者たちは皆一つになって・・・」ということです。つまりみんなが一つになって、本当のコミュニティになることです。

皆さんも以上の四つポイントのどれかを頑張ってみましょう。

 

5月24日
広瀬正兄弟 「新たな地平へ」
 聖書箇所 ヨシュア記1:1〜9

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 人は、いつの日かには新たな地平へと向かって旅立つ日が来ます。何人かのAETの姉妹、兄弟はまったく新しい国にやってきました。また新しい結婚生活に踏み出す姉妹もいます。素晴らしい出来事もあれば、つらい出来事もあります。いろいろな出来事を経験するわけですが、嬉しいにつけ、悲しいにつけ、それらは新しいことへの出発なのです。

 コヘレトの言葉3章1節に「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある・・・」とありますが、つらい出来事を私たちは時には不条理と感じますが、それは神様が定められた時、「カイロス」つまり「天から直接降りてくる時」なのです。 一方で私たちが生きて過ごしている時間は「クロノス」という水平に流れる時間で、わたしたちはその2種類の時間を生きているのです。

 さて、小幡兄弟はこれからアメリカで数年間の博士課程の勉強生活を送りますが、生活費やその後の生活についてはなにも保証がありません。不安と重荷を背負ってどうして出発するのでしょうか?それは、神様によって備えられたという信仰があるからです。招命感に導かれて旅立つのです。このことは、アブラハムの旅立ちを思い出させずにはいられません。アブラハムは75歳の時に招命感に導かれて旅立ちました。

 本日の説教の個所はモーセが120歳で死んだあと、ユダヤ民族を率いたヨシュアへの神様の言葉です。エジプトの地で奴隷として酷使されたイスラエルの民は、カナンの地を目指しました。けれども彼らは、結果的には40年間カナンの地には入れませんでした。それはとてつもない不安があったためです。モーセの派遣した12人の偵察隊はカナンを40日偵察した後、果物をたくさん持ち帰りました。彼らは「カナンは理想の土地ですが、進むには問題があります。人が大きくまた都市も頑丈で簡単に攻略できません。アマレク人もいます。」と報告しました。12人の斥候のうちヨシュアとカレブの2人しか「必ず道は開ける」と進攻に賛成しませんでした。

 つまり、モーセは偉大な指導者でしたが、彼の指導のもとにはユダヤ民族はカナンにはいれなかったのです。ですから、ヨシュアが指導者になった時点でも同じようなカナン進攻への恐れがユダヤ民族を支配していたのです。神様は「強く、雄々しくあれ、・・・わたしはあなたとともにいる。」と力強くおっしゃいます。神様がこうおっしゃったときにユダヤ民族は恐怖を乗り越えられたのです。

 小幡兄弟が今回出発できるのもこのような信仰があるからだと思います。神様の信仰によってヨルダン川を渡れるのです。

 また新たな旅立ちをしてヨルダン川を渡るのは小幡兄弟だけはなく、恒枝一家も同じだと思います。一旦は立川を離れる決意ができませんでした。不思議な巡り合わせで水戸に来ることができましたが、これも信仰によるのではないでしょうか?

 どんな困難にあっても、信仰をもって行動することの大切さをお二人は身をもって示されたと思います。それがキリスト者としての模範の生き方なのです。

 ところでヨルダン川を渡るのはお二人だけではなく、水戸教会もヨルダン川を渡ろうとしています。私たちは新しい霊的指導者のもと、あたらしい地平に向かって強く雄々しく旅立つことができるのです。

 

5月31日
小幡幸和兄弟 「神の声を聴くとき」
 聖書箇所 創世記11:27−12:4 13:10−18 15:2-6

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 先週の広瀬長老の話で創世記のアブラハムが出ました。今日焦点を合わせたいのはアブラハムの出発後の話です。アブラハムが神様の声を信じてまっすぐに進んだかというと、実はそうではないのです。出発後に三つの信仰の葛藤があったのです。 

 一つは故郷のカルデアのウルを出発して、神が示す地のカナンに行くように命じられますが、おそらくは父親の意向もあり途中のハランで留まってしまったこと。二つめは一緒にきた甥のロトとの別離。三つ目には子孫が増えるとの神様の約束があったにもかかわらず、子供が一人も恵まれなかったことです。しかし、神様は創世記15:5でアブラハムを励まされるのです。

 アメリカに行く決断に伴って、これまで私が感じてきたのも、アブラハムと同じような葛藤でした。昨年の今頃アメリカでChurch of Christの大きな集まりがあり、そこで野村先生をはじめアメリカの聖職者の方々から、日本のキリストの教会のためにさらに学ぶよう勧められました。その時に野村先生に示されたのは、エレミア書4:3の「主はユダの人々とエルサレムに住む人々にこう言われる。『あなたがたの新田を耕せ、いばらの中に種をまくな。』」というみことばです。本当に今回アメリカに行くという選択が正しいものなのか、正直言ってそういう葛藤がありました。また、前に進もうとした時にいろいろな難題が立ちふさがりました。その難題とは、(1)後任の水戸教会の伝道者が与えられるのか、(2)経済的な問題、(3)学習していくための能力の問題、等です。

 この教会の前任の伝道者である鈴木政夫兄弟と私の父親小幡史郎は、「目の前に2つの選択肢がある時に、あえて苦しい方を選択する」という特徴があるように私には思えます。私の世代は、効率を追求し困難を避けたがる世代だと思います。しかし、そうした葛藤の中で私に示されたのは、十字架上でイエス様が「この苦しみを取り除いてください。」と祈ったあとに、「あなたの御旨がなりますように」と祈ったという事実です。大切なのは「苦しいか否か」ではなく、「それが神様の御旨かどうか」だと思います。鈴木先生は「苦しい方を選択」したのではなく、「それを選択するのが「神様の御旨だから選択した」のだと思います。「使命があるから○○をせねばならない」のではなく「使命によって生かされている」という気持ちが人生に希望を与えてくれるのだと思います。

 また、今回いろいろな葛藤を感じたのは新しい伝道者としてアメリカから日本に戻って間もなく、立川から水戸に再度引っ越した恒枝兄弟ご一家、また教会の変化に伴う重責を担っている広瀬長老も同じだと思います。

 最後にへブル人への手紙3:15「今日、あなたたちが神の声を聴くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」を挙げたいと思います。神の声を聴いた時こそ、神の声に聴き従わなければならないのです。「神様の声」を私は直接神様から聴いたのではなく、アメリカにいる元水戸教会のメンバーも含め周りのクリスチャンの真摯な励ましや質問から神様のメッセージとして聴いたのです。

 私は皆さん一人一人の励ましを通じて神の声を聴くことができたのだと思っています。そして、皆さんご自身にも思い切って「新田を耕す」新しい出発をしてほしいと思っています。
 

 

 

 

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