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6月の礼拝の説教です
 

 

 

6月7日
マーク・ハンコック 兄弟 「信仰と希望と愛」
 聖書箇所 第一ペテロ 4:7〜11

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6月14日
恒枝 篤史兄弟 「幸いな人」
 聖書箇所 詩篇84篇

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 詩編84編。この詩篇を読むと、「いかに幸いなことでしょう」という言葉が三回にわたって繰り返されています。ですから、この詩は、「幸いな人の歌」だと言っていいでしょう。では、この人は、どのような人のことを「幸いな人」、と呼んでいるのでしょうか?

 まず、「あなた(神様)によって勇気を出し、心に広い道を見ている人」(6節)が幸いだと言っています。この「広い道」とは、「エルサレムの神殿へ通じる道」のことです。この人は、「神殿」へ思いを馳せている巡礼者なのです。そして、神殿へ向かう巡礼者は、「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とする」(7節)と言います。これはどういう意味なのでしょうか?

かつて、エルサレムへと巡礼の旅をした人たちは、必ず「嘆きの谷」とも言うべきところを通らなければなりませんでした。確かに、巡礼の旅をする者にとっては、乾燥しきった谷を通る道は、泣きたいほど辛い道だったことでしょう。 しかし、注目すべきことは、この詩人が、「嘆きの谷を通らない人は幸せな人だ」、と言っていない点です。「幸せな人」というのは、そのような嘆きの谷を通る時も、そこを泉とすることのできる人である、と言っているのです。

 では、どうしたら、嘆きの谷を泉とすることができるのでしょうか?
2節から5節を読むと、この詩人が、「神を慕い求める人」であったことがわかります。この詩人は、魂が絶え入るばかりに、気絶するほどに、神様を求めているのです。この人は、生ける神との交わりの中で 「真の命」に満たされて生きる喜びを知っている人だったのです。その喜びを持っているならば、もはや自分が乾いた地を歩いているかどうか、嘆きの谷を歩いているかどうかが人生を決定するのではない。なぜなら命の水は、源なる神から来るからです。そのような人こそ、嘆きの谷を歩くときも、そこを泉湧くところとしながら歩み続けることができるのです。

 喉が渇いている時に、私たちは一杯の水が欲しいと思います。しかし、「一杯の水を求めること」以上に大事なことは、「泉そのものを求めること」です。人生において今必要な何かを神に求めること、それは悪いことではありません。でも、本当に大事なことは、「命の源そのもの」を求めることではないでしょうか。神様から何かをもらうこと以上に、神様を求める!それは、私たちの創造主なる神が、生きておられる神であり、人を生かす神、命を与える神、命の源なる神だからです。最も大事なことは、その生ける神を知ることを求める、真に神を礼拝する、神との生きた交わりに生きることを求めること、なのですね。そのとき、私たちは、「いよいよ力を増して進み、ついにシオンで神にまみえる」(8節)ことができるでしょう。

 

6月21日
恒枝 篤史兄弟 
聖書箇所水の上を歩くペトロ」
 〜人生の嵐に遭遇するとき〜 聖書箇所 マタイ14:22−33

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 私たちの人生には、「嵐の日」があります。どんどん、どんどん波に流されて行ってしまい、漂流するような日々。そのような嵐の時に直面したとき、私たちは悩み苦しみます。それは、今日の箇所の、荒れ狂う湖に船をこぎあぐねている弟子たちの姿に重ね合わせることができるのではないでしょうか?

 ペトロは、イエス様が共におられるので、イエス様を信頼して、船の外へ一歩足を踏み出しました。そして、荒れ狂う波の上に、自分の足を降ろしました。・・・その足は、沈みませんでした。自分には出来なくても、イエス様にならできるということを、ペトロは信じました。つまり、信仰とは、「自分にできること」を信じるのではない。「イエス様ならばできる」ということを信じて生きることなんです。「わたしにはできない」と失望するんではなくて、イエス様を一心に見つめて「あなたの力で歩かせてください」と願いつつ、生きることなんです。

 ところが、ペトロは、信仰の強い人ではありませんでした。恐ろしい周りの状況によって、恐ろしくなってしまいました。ペトロが、イエス様を見ている間は元気が出ていましたが、イエス様から目を反らした途端に沈んでしまった訳です。では、イエス様から目を反らさなければ良いということになるのですが、強い風が吹いてきてそれを妨げるわけです。

 私たちの人生もまたペトロのようではないでしょうか?私たちも、信仰の強い人ではありません。私たちも、周りの状況によって、たやすくおじけづいてしまいます。イエス様だけを見つめていることができずに、すぐに目を転じて、外側の恐ろしい環境だけを見つめてしまい、心の平安を失ってしまうんです。その途端に、私たちもまた、ペテロのように、水の中に沈み始めるんです。私たちの心は沈んで行きます。どんどん、どんどん、沈んで行きます。そして、もう私たちは、助からないようにさえ、思われるんです。

 しかし、そのとき、どういうことが起こるのか?イエス様が手をのばして、私たちをつかまえて下さるんです。私たちがイエス様をつかまえるのではない。私たちがイエス様にすがりつくのでもない。事実は、その逆なんです。イエス様がすぐに手をのばして、私たちを引っ張りあげて下さるんです。

 イエス様は天の高いところから見下ろされ、こうすれば救われるのだと言っておられるのではない。イエス様がされたように、手を伸ばして、引き上げること。それが「救い」なんです。私たちの真っ只中に来てくださり、私たちと同じように、この世の試練に遭われ、苦しめられ、しかも十字架にまでかかって下さって、私たちの罪を許して下さり、失敗を受けとめ、救って下さる方なのです。ですから、私たちは祈るんです。叫ぶんです。「主よ、お助け下さい」と。 主は、私たちがそう主に祈り、叫ぶことを求めておられるんです。そうすれば、あなたを愛する主は、すぐに救いの手を伸ばし、沈むあなたを捕まえ引き上げて下さるんです。あとは全てを主にゆだねるんです。主は引き上げ、もう一度舟に乗り込んで下さいます。

 最後に一言。信仰とはなんでしょうか?それは、「自分の力で」イエス様の御手をしっかり握ることではありません。そうではなくて、たとえ絶望的な状況の中でも、私たちの手をしっかり握って離さないイエス様の御手を覚えること。そのイエス様の愛に信頼すること。そしてイエス様から目をそらさないことなんではないでしょうか。その時私たちの歩みは、試練の中でも決して揺るぐことがないんだと思います。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)

6月28日
LSTプログラム派遣の姉妹によるあかし

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タミー・ベルチャー姉

私は、クリスチャンファミリーで育ちました。おじいちゃん、おばあちゃんが、神様について教えてくれたことを、当然のことのように思って、育ちました。12歳で、クリスチャンになりました。18歳になって、キリスト教に疑問を感じるようになりました。高校から大学へと移る頃だったのですが、それは、「試練のとき」となりました。いろんなことがあって、私は鬱的になり、ふさぎこんでしまいました。その頃、キリスト教について疑問を持ち始めたんです。教えられてきたことが真理であるのかどうか問い始めたんです。私は、一人でいろんなことを研究し始めました。ユダヤ教や、その他のいろんな宗教についても研究しました。私の研究が終わったとき、私は、神様を、もっとはっきりと見ることができるようになっていました。その後、テネシー大学に入学が受け入れられたときには、もっとはっきりと分かるようになっていました。

私は、テネシー大学に先に入学していた親友に、あたたたく大学へ迎えられました。そして、キャンパス内にある、クリスチャン・スチューデント・センターへ誘ってくれました。そこで、神様についてもっと深く学ぶことが出来たんです。私は、過去数年間を振り返って、何と自己中心的でわがままだったのか、理解しました。このときが、私が「イエス様のために生きよう」、と決意を固め、神様と生きる決意を新たにした時でありました。

今回日本に来て以来、なぜ自分が日本に来たのか、考え続けていました。「日本にいつか行ってみたいなー」、という気持ちはいつもありました。でも、それが私が来た唯一の理由だとは思いません。私は、地球の反対側で、神様がどのようにして働いておられるのか、見てみたかったんです。アメリカでは、キリスト教はどこででも見ることはできる。でも、他の世界ではそうじゃない。ここへ来て、神様についてもっとはっきりとしたイメージを持つことができたような気がしています。

私は、水戸の地でも、神様を見ました。私は、皆さん方の愛の内に、神様を見ました。私は、毎朝、ひとみさんが素晴らしい笑顔で私たちにあいさつを交わしてくれるときに、神様を見ました。皆さんが、小幡先生が去るとき、笑顔とたくさんの良い思い出をもって、さよならを言うとき、皆さんの中に、神様を見ました。大洗海岸に行ったとき、やさしい年配の方の中に(今日、その方が初めて教会にも来て下さっているのですが)、神様を見ました。豊さんの、熱烈さの中に。アレンさんの熱い心の中に、神様を見ました。礼拝を持っている小さな教会、大子教会の方々の中に、神様を見ました。こんなにたくさんの、様々な人たちが、「そうです。神様は真実です。神様は生きておられます。」ということを示して下さっている。

あなたがたを通して働いておられる神様のおかげで、私は、かつての私ではありません。私に、神様の愛を分かち合って下さった皆さん方に、水戸の地を私の家のようにさえ感じさせて下さった皆さん方に、心から感謝します。

サラ・ジャクソン姉


いろんなことを考えてもみましたが、全ての事を、こうまとめることが出来るかと思います。すべてを尽くして、私の内におられる神様を愛すること。それが、私の生きる目的です。私は、神様が憐れみをもって私にして下さった全てを、私の残りの生涯を通して、神様にお返ししていくことです。

けれども、問題がありました。それは、「私は、愛が何なのか、わからない」、ということでした。私は、愛されることがない状況の中で、育っていきました。何度も何度も裏切られる状況の中で、愛という言葉がどういう意味なのか、無感覚になってしまい、分からなくなってしまっていました。私は、愛を、すっかり拒絶するようになりました。なぜなら、私の知っている愛とは、ねたみであり、嫉妬であり、肉体的な欲望でしか、なかったからです。大学に入ってから、ようやく、発見しました。「だれ」が、本当に「愛」であり、それが私たちにとってどういう意味があることなのか。神様は、私に、クリスチャンという素晴らしい人々との出会いを与えて下さいました!そして、この人たちが、「キリスト」とは、いったいどういうお方であるのかを、教えてくれたんです。

愛について学ぶことは、一生を通じて学ぶプロセスです。たとえ死を迎える時でさえも、神様が私のことをどのように思われておられるのか、すべてを理解することは出来ないでしょう。けれども、過去三年間にわたっての求道生活を経て、私は、愛について、このように考えています。愛とは、耐えることであると。愛は、理解できないでさまよっている時でさえ、続くものである。なぜなら、愛が私たちを招いて下さったから。もし、私たちがそれを大切に思うなら、愛に従うだろうから。愛は、あったかい感情ではない。愛は、あなたを満足させるだけのものでもない。それは、犠牲を伴うことなんです。耐えることなんです。あきらめないことなんです。なぜなら、キリストがこの私を、ただの一度もあきらめなかったからなんです。

私は今、水戸にいます。なぜなら、自分が愛ある人になりたいし、愛の中で成長したいからです。私は、神様が導いて下さるところへ、神様に従っていきたいし、そこが私自身を見つける場でもあるからです。ここで、たくさんのかけがえのない人々と出会いました。たくさんのことを学び、見ました。そして、ここでも、愛が何であるのか視点が広げられ、それに伴い、成長させられています。教会の皆さんと、受講者の方々に感謝したいと思います。

「デービッド・クラウダー・バンド」の歌詞を覚えます。「あなたは、すべてを素晴らしいものとして下さる。私はあなたのものです。その事実は、私をどのような者とすることでしょう。」この歌詞は、私を引き上げてくれます。教会も、神様が引き上げて下さることを願っています。神様は、私たちのことを決してあきらめない。なぜなら、神様は私たちを愛しておられるからです。私たちが神のものである以上、私たちは、素晴らしい者へと、造り変えられることでしょう。


ラキーシャ・ムーア姉

私は、家庭で、キリスト教について教えられました。両親の生きた信仰の姿を見て、育ちました。私は、9歳のときに、バプテスマを受けました。子どもの頃はずっと、神様について考えていたし、毎日聖書を読んで、教会の礼拝やピクニックに参加していました。けれども、私の人生の中で、神様がどういうお方なのか、あまり分かってはいませんでした。私は、神様の愛、憐れみ、恵みに頼らずに、自分自身の力で、正しいことをやろうとしていました。そこに、問題がありました。私は、自分自身の力で生きようとしていたのです。私は、私の知識に頼って、生きようとしていたんです。

実家を離れて、大学に通い始めた頃、私は、キャンパス・ミニストリーに参加しました。そこで私は、これまで教えられてきたこと、信じてきた事へのチャレンジに遭遇することになったんです。罪に対しての罪意識から、私は、自分自身の救いに対しても、疑っていたんです。

そんな頃、私は宣教旅行に参加する機会に恵まれ、聖書の学びに参加することで、励まされ、神様によって救われていきました。私がより頼んできたものを手放し、本当に主により頼む者となれるよう、祈り続けました。そのとき、私は、神様が、ずーっとその間、私を求めておられたことを知りました。そうです。私は、育っている間、自らをクリスチャンと称していました。しかし、自分自身が本当に神を体験することを許していませんでした。

私は、神様がどんなお方であるのかを、自分自身で制限し、ここまで私の人生の中で神様がして下さっておられたことに、制限をつけてしまっていました。その時には、私のことを赦して下さるほど、神様が私のことを愛して下さっていることの、確信が持てずにいました。私は理解しました。お母さんとのたくさんの話し合いや、たくさんの祈りを通して、私のことを愛していて下さっている神様を無視して生きてきたことを。私は理解しました。神について知ることは大事なことですが、神様がくれる何かを求める以上に、神を慕うこと、神を求めること、神を愛することが大事なことなんだ。神の子どもたちを受け入れて、圧倒的な愛で溢れさせて下さろうとしておられる神様を知ることが大事なことなんだ。

私は、ここ数年間にわたって、神様との関係を築き直している最中です。神様は、私を造り替えるために、一歩一歩、私のことを練り上げていっておられます。哀歌3章で、預言者エレミヤはこう言っています。「主の憐れみは、朝ごとに新たになる。」(哀歌3:23)私は、毎日、神様が私に教えようとしておられることがあることを、学びつつあります。私は、目を覚ました時、「喜んでそれを抱き締めなくちゃ」、と思います。他の誰のためでもない。神様のために。

私は、過去数週間の水戸での経験が、神様の用意して下さった道だと信じています。チャレンジも多かったですが、何よりも謙遜にさせられました。受講者との会話の中で、たくさんの質問を頂き、答えを分かち合い、神様についていっしょに考えました。毎日、たくさんの新しいことを通して、私は神様を見ました。私は知りました。神を知ることは、それはそれで素晴らしいことだけれども、それは、私たちの信仰生活の一部にすぎないこと。私にとって、私たちすべての人たちにとって、神様を、本当に個人的に、親しく特別な意味で知ることが出来ること。その方がよっぽど素晴らしいことなんだ。

ここでの時間は本当に恵みでした。私たちを歓迎してくださり、感謝しています。受講者の方々にも感謝しています。私たちに人生の一部を分かち合って下さったこと。また、私たちの人生の一部を分かち合わせて下さったこと。この場所で、神様が働いてくださった、たくさんの思い出とストーリーを、箱の中につめて、持って帰ります。神様が私のことをどこに導かれようとも、その箱をいっぱいにし続けることを願っています。

これから、歌を歌いたいと思います。
・ 「I’ll Fly Away」と同じ歌詞、でも違うメロディーで歌いたいと思います。

私は飛んでいきます (その素晴らしい日)

この人生が終わる、喜びの朝
私は飛んでいきます
神様の天の国の岸辺の家へ
私は飛んでいきます

この人生の悩みが大きくなったときも
私は飛んでいきます
鳥が牢獄から解き放たれたように
私は飛んでいきます

疲れた日々はあともう少しだけ
私は飛んでいきます

喜びが決して終わらない場所へ
私は飛んでいきます

私の主イエス様に顔と顔を合わせて見る
私を造って下さった方に会いたい 私の主に会いたい
私の救い主に会いたい その手を握りたい
私のお父さんと歩きたい 私の友と話したい

あなたの御霊で満たしてください 
理解したい すべての悩み苦しみを あなたの御教えを
あなたが私たちに教えようとしておられることを
でも見ることはできない
あなたに御霊で満たして下さい 主よ、教えてください!

あなたの存在で満たしてください 
あなたの栄光を見せてください
あなたの存在で満たしてください
素晴らしい、その日に
その、素晴らしい日に 主よ、私は飛んでいきます

あなたの栄光で満たしてください
そして、私は飛んでいきます

 


 

 

 

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