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5月の礼拝の説教です
 

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5月2日
恒枝  篤史 兄弟 「使徒2章の教会をめざして」    使徒言行録2:42−47 

音声はこちらから

 今日の聖書箇所、使徒言行録2章には、大きなポイントがあります。それは、「聖霊が力強く働く時に、教会の中に一体どういうことが起こるのか」、ということです。私たち水戸教会も、私たちの内に既に与えられている聖霊なる神様の命が生き生きと働く時に、具体的にどのような特徴を持つ教会へと成熟していくんでしょうか。どのような私たちへと、導かれていくんでしょうか。今日は、新年度を迎えるにあたって、「水戸教会は、一体どのような教会を目指すのか?」、ということを、使徒の第2章から、考えてみたいと思います。

 今日の箇所では、聖霊降臨の出来事によって、「聖霊を宿した教会」に見られる特徴が紹介されています。そこには、御言葉、祈りと賛美、そしてパンを裂く、つまり主の晩餐の交わりがありました。

 一つ、押さえておきたいポイントがあります。「救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」という主語は誰でしょうか。そうです。「主」なんです。真心こもった交わりがそこにある時、主のほうで、救われる人を仲間に加えてくださった、というのです。主にある教会が、共によき交わり、祈りの中にあるとき、主のほうで、救われる人を仲間に加えてくださると、約束して下さっているのです。

イエス様は、こう約束されました。

「二人や三人でも、わたしの何において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)

 我々教会にとって一番重要なことは、聖霊なる神様が住まわれる「本物」の共同体、教会を目指す、ということなのではないかと思います。私たちの共同体の中に主がおられるならば、人々が救われ、人々が祝福されます。

 私たち水戸キリストの教会は、聖霊の命が、群れ全体に息づく教会へと造り変えられる。一人ひとりの内に宿る聖霊の働きによって、私たちが皆、キリストに似た者へと造り変えられる。みんなが喜んで集い、安心して過ごせる教会になるんだ。水戸教会が地域の人々の「心の拠り所」となって、水戸教会の存在によって地域に住む人々が祝福されるという、地の塩、世の光として、この地に建てられた役割を果たしていきたいと思います。

5月9日
ジョエル・オズボーン 兄弟 「イエスの名により出て行く教会」    使徒言行録3:1−10 

音声はこちらから

 

名前は私達にアイデンティティを与え、関係の深さ(親しさ)を表現し、そして両親(又は私達の生涯の中で重要な他の人々)からの祝福であるため大切です。この「名前」に関するテーマは聖書の中でしばしば強調されています。詩篇の中で、守られそして救われるのは神の名を知りそれに依り頼む人々です。天使がマリアに対して彼女が赤ちゃんを産むでしょうと告げた時、マリアは具体的にその名をイエスと名付けるように言われ(ルカ130-31)、またイエスが使徒を任命して各々を名前で呼ぶ時(マルコ313-19)、イエスは祝福として、あるいは彼らがどのように知られるべきかを識別する要素として役立つ、別の名前をその数名に対して与えています。

 

使徒3章及び4章においては、4つのキーワード(又はアイデア)があり、それらは1)祈り、2)力、3)聖霊、そして4)「名による」です。これらの章はヨハネとペテロについて、彼らの使命/任務における結び付きと関与/参画を強調した話を語っています。ヨハネとペテロが神殿における祈りの際、施しを乞う男と出会い、彼をイエスの名によって癒しています。その後、サンヘドリン(古代パレスチナの最高審議議決機関)のリーダー達が、具体的に「何の権威によって、また誰の名によって」彼らが癒しの力を得たかを質問したことは重要です。

 

私達がイエスの名によらない限り、教会としてより深く成長し、より高められることは不可能です。私達は自分たちの力、知恵、又は願望によって進む教会ではあり得ません。過去が祝福されており、将来が明るく、これまで他の方々がなされた事を感謝し尊敬する一方で、私達は究極的に、我々の教会がキリストの名を担い、我々のアイデンティティがイエス・キリストから来るという事を思い起こす必要があります。私達には聖霊を通じたイエスの名によって来る力以外には何の力もありません。私達はイエスの名によって祈ります。私達はイエスの名によって奉仕します。私達はイエスの名によって他の人々の生き方における変化を目の当たりにし、祝います。イエスの名は私達を完全に覆います。そして、私達は教会としてイエスの名に栄光をもたらすために捜し求めましょう。

 

Names are important because they give us a sense of identity, express a depth of relationship, and they are a blessing from our parents (or other important people in our lives).  We see this theme of 'name' highlighted many times in Scripture.  In the Psalms, it is those who know the name of God and trust in His name that will be protected or saved.  When the angel tells Mary she will have a baby, she is told specifically to name him Jesus (Luke 1:30-31), and also when Jesus appoints apostles and calls each of them by name (Mark 3:13-19), he gives some of them another name which serves as a blessing or an identifying factor in how they are to be known.

 

In Acts 3 and 4, there are four key words (or ideas): 1) prayer, 2) power, 3) the Holy Spirit, and 4) 'in the name'.  These chapters tell the story of John and Peter, highlighting their partnership and participation in mission.  When John and Peter meet the man begging at the temple at a time of prayer, they heal him in the name of Jesus.  Later, it is significant that the Sanhedrin leaders ask the question specifically 'by what authority, or by whose name' they had the power to heal.

 

It is impossible to grow deeper or to go beyond as a church unless we do so in the name of Jesus.  We cannot be a church that goes out by our own power, our own wisdom, or our own desire.  While the past has been blessed and the future is bright, and while we appreciate and respect what others have done, ultimately we have to remember that our church carries the name of Christ and our identity comes from Him.  We have no power except that which comes in the name of Jesus through the Holy Spirit.  We pray in His name.  We serve in His name.  We witness and celebrate the changes in others' lives in His name.  His name covers over us, and we will seek to bring glory to His name as a church.

 

 

5月16日

恒枝 篤史 兄弟   「賛美礼拝」    マルコによる福音書12:30 

音声はこちらから

 

 

「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」(ヨハネ4:23)

 

神が求める賛美。それは、礼拝であり、祈りであり、生き方。それを我らは求めていく必要がある。今が、その時。そう聖書は言います。キリストの臨在、生けるキリストが、今ここにわたしたちと共にいてくださり、わたしたちと交わりを持ってくださる。そのために主は、わざわざおいでくださる。そのことへの期待と感謝と畏れをもって礼拝をささげる。主に向かい心を一つにし、主の臨在を会堂いっぱいに感じる。そんな「賛美礼拝」を、私たちは主におささげします。

 

私たちの「心」を主は喜ばれると言うことを心に留めたいと思います。心から力いっぱい主を賛美すること、主に感謝をもって賛美することこそ、賛美の力が表される第一歩だと思います。賛美するスタイルは問題じゃない。歌の上手い下手も問題じゃない。どんな言語で歌うのかも問題じゃない。隣の人を気にしないで、神様だけを賛美したいものです。手を上げるのも良し、手を叩くのも良し、ダビデのように足を鳴らし飛び跳ねるのも良し、ひざまずくのも良し、座って静かに歌うのも良し、心の中で歌うのも良し。とにかく、真剣に主と向き合うとき、主は答えてくださいます。「主に最高の賛美をささげること」こそ、私たちの目指す礼拝の本質なのだと考えています。

 

 

 

523

恒枝 篤史兄  「かたちでなく本物を」〜アナニアとサフィラから学ぶ〜  使徒51-11

        “Not Just Appearance but Authenticity  Acts 5:1-11 

 

                                                                                                          音声はこちらから

      

 

生まれたばかりの教会。そこには、素晴らしい共同体の姿がありました。心も思いも一つにして共に交わり、集まっていました。みことば、祈り、交わり、賛美、喜びがあふれていた。教会の中で、身も心も一つとされる喜びを味わっていました。・・・今日の使徒5111節の箇所までは。

 

アナニアとサフィラが死ぬという下り。なぜ、著者ルカはこの恐ろしいような話を書く必要があったのか。なぜ、このような恐ろしい事件が起こったのか。アナニアとサフィラの何が取り扱われたのか。私たちにも同じような罪が潜むことがある、教会に罪が入って来ることがある。今日は、アナニアとサフィラの生き方から、考えてみたいと思います。

 

So far we have seen the power of the Holy Spirit in the apostle’s lives and the phenomenal growth of the ChurchThere was a picture of a wonderful community of God’s peopleThere were prayers, fellowship, praise, joy, and unity. The gospel of the resurrection is proclaimed and abundant grace was upon all the people ... except in Acts 5:1-11. The deaths of Ananias and Sapphira do not seem to fit with the narrative just before the text and after it. Why does Luke interrupt his account with this depressing story? Why did this awful incident happen? What can we learn from Ananias and Sapphira?  

 

 

 

530

リッチ・リトル兄  「ともし火をともし続けていなさい」 ルカ1235-40

 

                                                                                                         音声はこちらから

 

 

物事は、表面上だけでは判断できないことがあります。神をどう見るかという視点も、表面上だけでは分からないことがあります。ルカ12章で、イエス様が婚姻の宴のたとえ話をされました。参加する人たちに、きちんと服を着替えて、準備していなさいよと注意されました。主は仰いました。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」(35節) 服を着て準備しているだけでは十分でない。ともし火をともしていることが大切なんです。

 

クリスチャンが、何十年も教会にいながら、その火を消してしまっているということは十分あり得ることです。クリスチャンのように着飾っている。クリスチャンのように話し、クリスチャンのように生きる。初めてクリスチャンになったときに頂いた火は、何年も前に消えてしまっていたとしても・・・。今日もし私たちがそのような状態に陥っているとしたら、どうすれば良いのでしょうか。

 

キリストにある歩みを考えるときに、見た目やかたちにこだわるのでなく、あなたの人生の「炎」について考えてみてほしい。主のための炎を燃やし続けていますか?

 

May 30, 2010 

Keep Your Lamps Burning  Luke 12:35-40  by Rich Little

 

Things are not as they appear. Things are not as they appear with our view of God, either. Jesus told the parable of the wedding feast in Luke 12 and warned the attendants to be dressed and ready for service. He said, "Be dressed ready for service and keep you lamps burning."

 

It’s important to remember that a lot of people are dressed and ready for service, as we are today, but he wants people to keep their lamps burning. It’s not enough to look like we are ready to serve but it’s equally important for our lamps to be lit. It’s easy for Christians who have been in the church for a number of years to allow their fire to die. It’s easy for us to dress like Christians, talk like Christians and live like Christians, even though the fire we once had for Jesus when we first became Christians died many years ago. So, what can we do if we find ourselves in that place today?

 

If your fire is not burning brightly, then this could be the opportunity you need to see the love of Christ working in your heart. He has a desire and wish to move within your heart and ignite the passion and fire you once had for him. Do you “keep your lamp burning” for the Lord?

 

 

 

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