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10月の礼拝の説教です
 

 

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10月4日
恒枝 篤史兄弟 「神様が出会わせてくださった」
 聖書箇所 エフェソ2:19-22

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 「教会」っていう言葉は、もともと、単なる「集会」とか「集い」の意味です。けれども、そこには、「神が集めた人たち」っていう意味が込められています。そこは、イエス・キリストがおられるところ。神様によって集められた仲間が、キリストの家族として共に生きるところです。その出会いは、決して偶然じゃない。神様が集めて下さったのです。ですから、私たちが集まるところ、その主催者は、「神様」なのです。そこに、神様が現実に働かれていることに、真の救いがあります。確かに、教会以外にもいろいろな仲間はいるでしょうし、大切な家族もあるでしょう。しかし、この教会の仲間、つまり神様が呼び集め、イエス様が真ん中にいて、この二千年間途切れることなく、一人一人にまことの命を与え続けてきたこの教会の仲間は、この世界で最もかけがえのない真の家族であり、永遠の仲間なのです。

 「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:19〜22)

 この箇所で、パウロは、「キリストを土台として、キリストにあって、私たちがお互いにつながって、組み合わされて、成長していく。そして、共に建てられていく。イエス様が住まわれる場所となる」、と言っています。私たちは、一人ぼっちで神様を知ることはできません。自分一人でキリストに出会うことはできません。自分一人で成長することはできません。この仲間こそ、神様が、あなたのために用意された仲間なのです。神様が結び合わせて下さったのだから、この出会いには必ず意味がある。そう信じて福音を宣言する。そこに、救いが実現する。そうして教会は教会になっていく。大切なことは、救いは、「理屈」ではなく、「出会い」を通して実現するということです。そういう救いを、神様は、「抽象的な教え」ではなく、ちゃんと「人と人を結ぶ」ことで実現させているのです。

 私たち水戸教会には、集まる場所があり、集まる理由があり、それを信じる仲間がいる。ちょっと工夫して、ちょっと団結して、ちょっと面倒な思いをして、そういう出会いに奉仕し続けていくならば、「あの日の教会との出会いで、私は魂を救われました」なんて人も現れる。かならず現れる。「特別な御心で、神様が集めてくれた、神様が会わせてくれている人だ」、そういう思いで、今日も向かい合いたい。それこそが、「神様が集めて下さった教会」、という集いの本質なのではないでしょうか。

 

10月11日
広瀬 正 兄弟 「天国とは何ですか?」
 聖書箇所 ヨハネ 17:24

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 わたし広瀬正は一人の人間です。これは私の体です。体をもっていることを疑う人はいないと思います。それでは霊はどうでしょうか?ある人は霊は存在しないと考えています。それらはすべて脳の働きだと解釈するのです。

 すなわちその人にとって人間が死んだら残るのは骨だけです。それは言うならば唯物論的な考え方です。統計では、60%の人が霊が存在する、30%がよくわからない、10%が霊は存在しないと考えるそうです。

 それでは、聖書はどう教えているでしょうか?聖書は明確に人間には体と霊があると教えています。創世記には神様が土から人間を作って息を吹きかけられたとあります。わたしが死んだ後、わたしの霊はどこに行くのでしょうか?

 わたしのように年とった者にとって自分の霊がどこに行くかということは、切実な問題です。
 
 それでは、わたしたちが死んだら霊はどこに行くのでしょうか?「千の風になって」という歌がはやっています。特にお年寄りの間で大流行しています。長い間信じてきた仏教、お寺に対する信頼が揺らいでいるのです。そういう人にとって、この歌は霊が生き続けるという歌であり、ものすごい慰めの歌なのです。メルヘンとしてはいい歌だと思います。しかし歌詞のメッセージは聖書のメッセージとは全く合いません。今日はそのことをお話しします。

 では死んだときにわたしたちの霊はどこに行くのでしょうか?旧約聖書のコヘレトの言葉12:7に「霊は神の御許に」とあります。これが聖書の教えです。聖書の中で、キリストは何箇所か霊の行き先について教えています。ヨハネ14:2、ヨハネ17:24、ヘブル 6:20、 ヨハネ11:25〜26.。

 それでは天国はどのようなところでしょうか?よく弔辞で「どうぞ天国で安らかにお眠りください」と言います。では、天国では眠るのでしょうか?いや、けっしてそんなことはありません。天国の特徴を言うと

(1) まずわたしたちは天国に入ると安らぎの時を過ごします。罪から解放され、苦痛、悩み、絶望から解放され安らぎの時を過ごします。
(2) わたしたちはキリストの栄光を目の当たりに見ます。確かにキリストは私達の霊に中に住んでいますが、今ははっきりとは見えませんが、天国ではキリストと顔と顔を合わせます。
(3) 私達は天国で働くのです。マタイ25:23にあるタラトンの例えは忠実なしもべの話ですが、よく読むとこれは天国の話なのです。
(4) 私達は天国で賛美するのです。私は天国をイメージすると真っ先にこのことを思います。
(5) 私達は交わりをします。教会の交わりも素晴らしいですが、天国の交わりも素晴らしい。
(6) 私達は天国で喜びに満ち溢れるのです。

 天国は素晴らしいところだということがご理解いただけたと思いますが、天国は終の棲家ではないのです。

 私達は天国にあっても、もっと素晴らしい新天地が来るのを待っているのです。それはどのようにやってくるのでしょうか?

 聖書の教えではキリストが再臨されるのです。そしてキリストが再臨すると色々な事が起こります。その日自然界は崩壊し、新天地が出現します。その中で新しいエルサレムがやってくるのです。その新しいエルサレムの中で私たちの地上の肉体が復活し迎え入れられるのです。その復活の様子は第一コリント15:42〜44に書かれています。

 最後にこの言葉でまとめたいと思います。キーワードは「神の国」新約聖書に70回出てきます。「神の国」は天国です。それでは「神の国」は地上にないのでしょうか?地上の「神の国」は教会です。すでに地上に実現しているのです。イエスさまは神の国が目の前に来ているとおっしゃいました。しかし私達が地上で与えられてる「神の国」は完全ではありません。なぜなら私達の霊は、罪の肉体の中に留まっているからです。

 それでは天国は完全でしょうか?それも完全ではありません。キリストの再臨があって初めて神の国が実現し、その時初めて私達の霊と体とが一体となって、本当の神の国が実現します。

 聖書の最後の記述は何でしょうか?黙示録の21:21にあるように、「アーメン、主よ来てください。」なのです。あなたはこのことを信じますか?

 

10月18日
マーク ハンコック 兄弟 「あと一つ
 聖書箇所 マルコ 10:17=22、27

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10月25
恒枝 篤史兄弟 「イエス様に贖われた」
 聖書箇所 ガラテヤ 4:5
証し ブレット・ウォーシャム兄弟 

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 皆さん、「贖い」という言葉をご存知でしょうか。「贖われた」というと、言葉が難しいですが、言い換えると、「買い取られた」ということです。「身代金を払って、自由にされた」、ということです。刑務所に入っている状態。その身が、誰かが保釈金を払ってくれて、自由にしてくれたということです。聖書によると、その「誰か」というのが、イエス・キリストだった、ということなのです。それも、「イエス・キリストが、神の一人子が十字架にかかって死んで下さった」という、大きな大きな代価が、そこに払われているのです。

 私たちは、もともとサタンの支配の中にありました。ですが、サタンの中にあったものが贖われた。買い戻されたのです。尊い代価を払って、身代金を払って、保釈金を払って自由にされた。贖われたとはそういうことです。 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43:4)と言ってくださるお方がいるのです。私たちのことがいとおしくてほっとけない。だからこそ、イエス様は私たちの身代わりに来て下さって、いのちまで投げ出してくださったのです。

 今日証しをしてくださったブレットさん。それまで、「自分を本当に愛して無条件に迎え入れてくれるところなんてこの世にあるものかと」、きっと心の底ではそう思って、自分の思いだけを抱きしめて、この暗い世界を精一杯歩いてきたんでしょう。そんなブレットさんに、神様はただひたすら愛をもって近寄り、主キリストによって手をさしのべられた。そして、「神様が私を迎え入れてくれている」ということを体験して、ブレットさんの人生はまったく変わってしまった。「ここに救いがある。今まで暗い世界をさまよってきたけれど、ここに光がある。ここまでくればもう大丈夫。私はあらゆる悪を永遠の喜びへと変えてみせよう」、そういう世界へと導かれたのです。ブレットさんは、本物の「ようこそ」を生まれて始めて体験したのです。彼は、まったく新しい人生を始めました。

 考えてみれば、「イエス様をお迎えしよう」なんて一生懸命だったかもしれないけれど、「迎えていたのは、イエス様の方だった」のですね。イエス様は、今日も、こうして両手を大きく開いてくれています。その手は、あなたを迎えているのです。「私のところにおいで。もう大丈夫だ」と。

 


 


 

 

 

 

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