4月4日
恒枝 篤史 兄弟 「十字架の向こうには」 "Beyond the Cross" マタイによる福音書27:45-56
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「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:45)
一見情けない言葉に聞こえますが、人は誰もが、こういう叫び声をあげます。私たちも、元気なときには、「神様を信じます」とか、「神様がついているから大丈夫です」と言えますが、病になったり、苦しいことがあったりすると、信仰なんて吹っ飛んでしまって、大丈夫だなんて思えなくなってしまうのではないでしょうか。「神様、どうして私はこんなつらい思いをするんですか。」「どうして望みを絶つようなことをなさるんですか。」「神様、なぜわたしを見捨てるんですか」、と叫ぶのです。
実は、イエス様は、そんな私たちと「一つに」なりたかったんです。もしもイエス様がこのように叫ばなかったら、「イエス様はご立派だから、十字架の上でも信仰と希望があったんでしょうけど、弱い私にはとても無理だから救われないんじゃないか」と思ってしまうのではないでしょうか。「神様、なぜ私を見捨てたのですか?」という神の子の叫び、それこそが私たちにとっての救いの保障なのです。
私たちの弱さと醜さをすべて背負って、十字架の上で、人間の絶望を引き受けてくださった。人々のこれほどまでのすべての憎しみ、罪、人間の絶望を背負った訳ですから、歴史上のすべての人間の中で最も深い絶望を味わったのだと思います。「私だって、最後の最後、どん底まで経験したんだよ」、と主は仰せになる。「大丈夫。私は父なる神にまで見捨てられたんだから、お前の気持ちはよく分かるよ。」 そう言って下さる。苦しいこと、辛いこと、もうどうにもならないこと。どんなことがあっても、イエス様も同じようなことを体験された。そのイエス様だからこそ、苦しみの中にある私たちを救うことがおできになるのです、と聖書は言っています。
「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4:15)
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」(ヘブライ5:7)
人生のさまざまなことで痛み苦しんでいる私たちのために、イエス様は十字架について苦しまれ、罪を赦してくださいました。イエス様はそういう私たちを復活に導くため、ご自身が十字架について復活されました。この主の十字架のお姿を仰ぎ見ていると、自分が今耐え忍んでいる、様々な苦しみや痛みは、「イエス様の十字架と同じ姿だったんだ」、と分かって来るのではないでしょうか。そして、「今はこんなに辛いけれど、でもそれは復活の命にあずかることなんだ、主イエス様と同じなんだから」、ということも分かって来るのではないか、と思います。
主と共に死ぬ者は、主と共に復活するのです!
「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」(1ペトロ4:12〜13)
4月11日
佐々木 和也 兄弟 「隣人になる」 ルカによる福音書10:25〜37
4月18日
恒枝 篤史 兄弟 「聖霊が降ると、力を受ける」 使徒1:1〜11
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イエス様は、「あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)と語られました。そして、イエス様はその事を言い残して天に上がられていってしまった。このときの弟子たちの気持ち、分かるような気がします。自分たちの偉大なリーダーだった、イエス様がいなくなってしまった。しかも、イエス様を十字架につけた有力者たちは、まだそのまま残っている。復活されたイエス様がそばにいれば心強かったんでしょうが、せっかく復活された、今度は弟子たちが捕らえられて、処刑されるかもしれない。きっと、ものすごく不安だっただろうと思います。
「もうだめだ」、とそう思った。すべては終わった、もう絶対無理だと。そんな、「もうだめだ」、とみんな絶望しているその現場に、イエス様は、使徒たちに、最大の贈り物をします。それが2章の、「聖霊降臨」、いわゆるペンコステの出来事」です。
「あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」(使徒1:8) ここで、「力」と訳されている言葉は、ギリシア語で「デュナミス」(dunamis)という言葉です。実は、英語のダイナマイト(dynamite)という言葉は、実は、この言葉に由来するそうです。「爆発力」をもった圧倒的な力。イエス様を死から復活させた力。人を内側から造りかえることのできる力。そういう「力」を、聖霊様がお与えになる、ということなんです。
一つ覚えておきたいことがあります。それは、このような力は、人間が努力して会得する物ではない、ということです。それは、「与えられる」ものだ、とイエス様は語っています。それが、「受ける」、という言葉で表現されているのです。
聖霊が働くならば、私たちの思い、努力、そんな人間のわざを吹き飛ばすかのように、神の霊による圧倒的な「神のわざ」が実現する。わたしたち教会の喜びは、すべてこの圧倒的な喜びの聖霊様の働きによるものなのです。「もうだめだ」「うまく行かない」、というのは人間の考えです。そこへ突然降る喜びの聖霊。その働きに促されて、私たちは出発をします。新たな年度に何が起こるのか、聖霊なる神様が何をされようとしておられるのか、期待をもって、わくわくしながら新年度を皆で迎えたいと思います。
4月25日
マーク ハンコック 兄弟 「喜びましょう」(Let's rejoice!) フィリピの信徒への手紙4:4-7
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