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9月の礼拝の説教です
 

 

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8月の説教

9月6日
マーク・ハンコック 兄弟 
「全世界に行って」 聖書箇所 マルコによる福音書 16:14−16

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9月13日 特別説教
ドワイト オルブライト 兄弟 
「良い時代の約束」  聖書箇所 ミカ書 5:1〜5a

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9月19日 特別講演
リッチ リトル 兄弟 

特別講演会(1) 「弟子訓練と霊的成熟」 〜内なる成長のために〜 

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 私たちは、自分のことを「クリスチャン」と名乗りはしますが、「キリストの弟子である」という考えをすっかりなくしてしまった、ということはないでしょうか。新約聖書に、「クリスチャン」という言葉が何回出て来るか、知っていますか?2回です。では、新約聖書に、「弟子」という言葉が何回出て来るか、知っていますか?260回以上なんです。にもかかわらず、私たちは自分たちを「クリスチャン」と自称し、めったに「弟子」という言葉を使いません。「弟子」という言葉は、他の誰かについていく人のことを言いますね。イエス様の弟子として、私たちはイエス様が生きたように生きる。クリスチャンという名前を「自称する」だけでなく、私たちは「イエス様について行く者」なんです。

 最近、弟子訓練についてたくさんの本が出版されています。ダラス・ウィラードは、著書「Great Omission」(これは、Great Commissionと掛けているんですね。大宣教命令ならぬ、大省略とでもいいましょうか。)その本の中で、クリスチャンであることと弟子であることの間には隔たりがあることを指摘しています。彼は、弟子にまでなることなく、クリスチャンでありえるということを指摘しています。キリスト教の真理を信じているものの、その真理によって人生が変えられていない人がたくさんいる。多くの教会はイエスが神の子であることを頭の中で決心させるように説得して、バプテスマを授けることに時間とエネルギーを費やしている。でも、イエス様を心で愛するということを経験していない。イエス様を、理屈だけで、頭の中だけで愛している。イエス様という「概念」だけを愛していて、イエス様を熱烈に愛するということを経験していないのです。

 ウィラードは、大宣教命令の中に、大省略があると言います。マタイによる福音書28章18〜20節を開いてみて下さい。大省略とは、「弟子を作りなさい」という部分です。我々は、「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授ける」ことを強調してきた。そして、素晴らしい結果をもたらしてきた。しかし、多くの教会は、この命令の最初の部分、「弟子を作りなさい」ということと、命令の最後の部分「イエスがしたことすべてを守るように教える」ということを怠ってきました。バプテスマに焦点を置いていた。弟子訓練には焦点を置いていなかった。我々は、人数にとらわれすぎていて、弟子作りに焦点を当ててこなかった。人々に、理屈ばかり教えてきた。しかし、弟子が成長するための訓練を実際に行ってこなかった。理屈を通してイエス様につながってきたので、そのようややり方で教えてきた。主と心の関係を持つよりも、理屈での関係を持ってきた。

 神と、まるで取引をするかのような関係を持ってきた。銀行窓口へ預金を持って行けば、きちんとお金が貯まる仕組みのように、神様に対しても、事務的な対応をきちんとしておけば、やるべきことは終了と思ってきた。銀行からお金を引き出すために、銀行員に熱烈な愛情を注ぐ必要はないですよね。私はこれこれのことを神様に対してしたのだから、神様はそれに見合う報酬を下さるはずだ、というように、事務的に考えてしまうなら、神様を心から愛することはできないでしょう。福音派の教会リーダーや牧師と話をしてきた中で、この問題が、すべての宗派の教会に共通していることを実感しました。今こそ、教会が、本物の弟子作りを必要としているのではないでしょうか。私たちが本物の弟子としてイエス様の似姿に成長し、大宣教命令の一部だけでなく、完全に従う。そして、イエス様にもっと近づき、イエス様のすべての教えを伝えていくには、イエス様が大切にされていた「霊的なしつけ」というものが存在することに気が付くことでしょう。

 「しつけ」という言葉を聞くと、私たちは何を思うでしょうか。今でもはっきりと覚えていますが、親の言うことを聞かなかったときには、しつけを受けたものでした。「しつけ」とは、私たちの多くが、親や先生から受けてきたことです。しかし、イエス様の教えた「しつけ」とは、かなり異なるようです。

 リチャード・フォスターという人が、「スピリチュアリティ 成長への道」という本を書いていますが、彼は「しつけ」について次のように言っています。「霊的なしつけとは、神様が私たちの内に働くために、成長の場へと導いてくれるものである。それ自体では意味はないが、私たちを次なるところへと導いてくれるもの。神は祝福して下さる場所へと、私たちが自分で向かう方法として、神は霊的なしつけを与えてくださった。」 すごい言葉でしょ? 霊的なしつけとは、神様が私たちのために備えて下さっているものを、受け取る場へ行くことが出来るよう、成長させてくれるものなのです。

 霊的なしつけという言葉を聞くと、行いによる救いを考える方がおられるかもしれません。恵みではなく、しつけという行いを通して、天国へ入ろうとするという考えです。ウィラードは言っています。「恵みは、努力と相反するものではない。恵みと相反するのは、自力で勝ち取ろうとすることです。努力することは行動に移す、ということです。自力で頑張って獲得しようとするのは態度、姿勢です。違いが分かりますか?どうしたら恵みをいただくことができるのでしょう?私たちはキリストの御業ゆえに、恵みをいただくことができ、そのお返しとして努力をします。それは、勝ち取ることとは異なります。救いを勝ち取るために一生懸命働くわけではないんです。勝ち取ろうとすることは、態度や姿勢の現れです。努力とは、行動に移すことなんです。イエス・キリストが下さった恵みのゆえに、私たちはそれをお返しするという応答なのです。私たちは努力して信仰を手に入れるように考えてしまうかもしれませんが、そういうことではない、と言うことを知っておいてください。

 フォスターによれば、霊的なしつけ、訓練は、3つに大きく分けることができます。1つめは、内なる霊的訓練、しつけです。

A. 内なる訓練
 この内なる霊的訓練の中にも、4つの種類があり、それはクリスチャンの成長を内側から助けるものです。

1.黙想
 最初の訓練は、「黙想」です。私にバプテスマを授けてくれた人は、10年間、仏教、禅を学んでいました。禅を学ぶ課程で、彼は黙想に関しても学びました。クリスチャンになった後も、彼は自分の心をキリストに向け、神の言葉について深く考えるため、黙想を実践し続けていました。彼は私に、黙想の大切さ、そして黙想がどういうものであるかを、教えてくれました。聖書は、私たちが黙想するように、命じています。詩篇48:9、詩篇119:97、詩篇119:27私達は、聖書を、情報だけのために読むべきではない。変えられるため、成長のために読むべきです。私たちはよく、知識を得るだけのために聖書を読んでしまう。しかし聖書は、私たちが神様によって造り変えられるために与えられたものなのです。御言葉の黙想は私達の成長を助けて下さいますが、その簡単な方法として、言葉に焦点を当てるという方法があります。ヨハネ14:27を例に挙げてみます。この中で、5つの言葉に焦点を当てながら読んでみたいと思います。ゆっくり読んでみましょう。この言葉に力を入れて読んでみます。「私の」平和を与える。そして、「神様」の平和の中にいることを考えながら、数分間、黙想の時間をとるんです。そして、今度は、次の言葉に焦点をおいて、読んでみる。「平和」。今度は、「平和」な状態、シャローム、それが一体どういうことなのか静かに考える時間をとるわけです。次に読むときには、強調点を変えて読んでみる。「わたし」、「与える」、「あなたがたに」。毎回、同じ聖句でも、違う強調点を考えてみる。そうすることで、私たちの魂と思いが御言葉でいっぱいに満たされるのです。

2.祈り
 次の霊的な訓練は、祈りです。ここで取り上げるのは、食前の祈り、眠りに就く前の祈り、聖餐式での祈り、礼拝の開会の祈り、閉会の祈りではありません。そうじゃない。このような、決まったときにしか祈ることをしない人々もいますが、我々は、そういう祈りを超えなくちゃいけない。あなただけの個人的な、一人だけの、最高の祈りのことです。それが、祈りです。もしも、公での祈りや、家族との祈りの時間をぜんぶ取り除いたとき、あなたの祈りの生活はどのようなものでしょうか?イエス様がマタイ6章で、言って下さった、「主の祈り」と比べてみて、どうでしょうか。

 イエス様は、こう祈りなさい、と言いました。「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。」(9節) ここに、しつけや訓練を見ることができます。私たちの祈りのほとんどが、私たちの名前、他の人たちの名前で終わってしまっている。イエス様は、「神様の御名で始まるように」、教えられたんです。次に、イエス様は言われます。「御国が来ますように。」(10節)こういう人がいます。御国はもうすでに来たのだから、これを祈らなくてもいい。でも、御国は、私たちの国や、私たちの教会でもたくさんの方々の上に、まだ来ていないじゃないですか。私たちの祈りのほとんどが、「私たちの国」に関することばかりで、「神の国」じゃない。そして、イエス様が言いました。「みこころが行われますように。」私たちの祈りは、私たちの思い、私たちが欲しいもの、こうあってほしいという願いばかり。もし、私たちが、神様の御名、神様の御国、神様の御心にのみ、焦点を当てた祈りをしたら、何が起こるでしょうか。それが、訓練された、祈りの生活です。私たちは、祈りについて、イエス様のポイントを外してしまってはいないでしょうか。

3. 断食
 私たちの内なる人が変わるために、イエス様が教えられた、次の内なる訓練。それが、「断食」です。断食は、ほとんどのアメリカ人が大嫌いなことです。アメリカ人はよく食べますからね。(笑)悲しいかな、我々の群れのほとんどは、断食を定期的にしていない。ですが、イエス様は、40日40夜の断食をしました。私たちは日頃、食事のことを考えて多くの時間をすごしています。起きると、朝ご飯のことを考える。そして、朝ご飯を食べる。そして、今食べた朝ご飯のことを考えていたと思うと、間もなく、お昼ご飯のことを考え始める。そして、お昼ご飯を準備して、お昼を食べて、お昼ご飯について考えて、それから、夕ご飯のことを考えて、夕ご飯を準備して、夕ご飯を食べて、夕ご飯について考える。私たちは、胃の奴隷になってしまってるんじゃないか。(笑) 断食は、肉的な糧から私達の思いを一掃し、霊的な糧を求めて神により頼むよう、助けてくれるのです。

4. 学び
 最後の、内なる訓練は、「学び」です。神の御言葉を学ぶ。キリストのいのち、信仰、神と聖霊の学び、これらは弟子の内なる人を造りかえることに深く影響します。良い学びをするための4つのステップがあります。私は、聖書や本を読むときに、いつもこの4つのステップを使っています。「繰り返す、集中する、理解する、反芻する。」同じ節を繰り返して何度も読むと、御言葉が根深く心に入ってくるのです。御言葉を深く思いめぐらすことにより、更に理解が益し、読んだ内容を熟考することにより、私たちを造り替える神の御力を知ることができるのです。よく考えずにさっーと読んでいってしまうならば、学びによって、造り替えられることはありえないのです。

B. 外なる訓練
 外なる訓練も、4つあります。

1. シンプルであること
 まず、「シンプルであること」です。私は小さい頃、母から「Simple boy」(お人好し、おめでたい奴)と呼ばれていました。物心つくまで、それがどういう意味なのか分からなかったんですが。オーストラリアでは、simple boy とは、単純、おつむが空っぽとか、そういう意味があるんですね。言われても嬉しくない言葉です。日本には、もちろん、そういう意味でシンプルな人はいないでしょうけどね。(笑)

 我々先進国や生活は、どんどん複雑になってきている。私たちが技術革新に呑み込まれてしまう。スケジュールもいっぱいで、約束事もいっぱいで、シンプルであることの大事さを失ってしまっている。事実、私たちは、自分の存在価値が自分の忙しさに比例している、などと思ってしまうことがある。忙しいほど価値があり、自分が重要な人物だと思いたがる。忙しくしていない人、自分たちほど忙しくしてない人を見ると眉をしかめる。物質主義と消費主義が、我々の魂を汚染してしまっている。主の弟子は、この世とは違う生き方をしなければならない。自分のアイデンティティというものを、所有物、乗っている車、住んでいる場所、着ている服、忙しいスケジュールの中に見出すことはできないんです。私たちの魂を、時間やエネルギーを裕福な生活のためにつぎ込みたくはないでしょう。そうでないと、我々の魂は、イエス様ではなくて、贅沢な生活によって満たされてしまうでしょう。

2. 一人きりになること(静まること)
 一人きりになることが、2番目の外なる訓練です。孤独―それはこんな、思いも寄らない場所で得られるものです。昨年、私は男性のための修養会でスピーカーとなる機会がありましたが、そこで一緒にいた何名かの方々に、静かな場所へ行って1時間、私と共に過ごしてくれるように頼みました。聖書を持って行ったり、お祈りをしたりもしないで下さい、とお願いしました。何も考えずに、ただじっと静かにして下さいと頼みました。沈黙の時。1時間という間、頭の中からもすべての音を消し去るよう、自分に言い聞かせるのです。ただ、神様が創造された天地にだけ耳を傾ける時です。沈黙の時を過ごすようお願いした男性の方々は、その後戻ってきて、完全な沈黙の時を過ごすという、こんな大変なことは今までしたことがなかったと話していました。それが大変だからこそ、「訓練」と呼ばれるのです。それは非常に難しいことです。静かな場所で一人きりになると、神様の声を聞くことができます。心が自分の声でいっぱいになってしまっていたら、私たちはいったいどうやって神様のささやきを聞き取ることができるのでしょうか。

 イエスさまはよく、一人きりで静まる時を過ごされました。一人きりで静まる時は、訓練されていない私たちに訓練を与えてくれます。詩編46:10にあるように、あなたは静まり、そして神を思うことができるでしょうか。それとも、日々の生活の忙しさにがんじがらめにされていて、一人静まる時を過ごすのは不可能でしょうか。一人きりになるということも、イエスさまが私たちに下さった大切な教えであると思います。

3.服従すること
 服従することも、また1つの外なる訓練です。服従することが難しいと考える人がいることは確かです。権威のある人々にとっても、服従は難しいです。しかし、服従という態度は、イエス様の教えの1つでもあります。父なる神に対して、また私たちはお互いに対して、服従する必要があります。聖書が教えるところでは、他の人に対して服従するという謙虚な態度を示すことにより、自分よりも人を優先することを学ぶことになるのです。服従するということは大きな力があります。なぜなら、服従は私たち自身の思いや欲望を否定し、他の人々を思い、そして何よりも、神様の意志を尊重するということになるからです。服従を拒む人というのは、自分で決めた道を行くことになるので、いつも霊的な窮地へと向かってしまうんです。

 私はこれまでにアメリカ・オーストラリア間を30回以上、飛行機で行き来していますが、自分で飛行機を操縦したいと思ったことは1度もありません。そんなことをしたら、太平洋の海底へと行き着くと、わかっているからです。私はパイロットの資格は持っていません。ちゃんと資格を持っている人に頼っています。命さえも預けるわけです。私たちが完全に神と、また人に服従するとき、私たちは私たちの人生を委ね、神様に造りかえていただくことになるのです。自分の人生を操作しようと、神様と争うようなことがあれば、人生は台無しになってしまうのです。

4.奉仕
 4つ目の外なる訓練は、奉仕です。お互いに対する目に見える奉仕というだけでなく、私たちの日常生活の場でどう仕えていくか、ということです。意図的に努力しながら仕えていこうとしないなら、私たちは、イエス様が教えて下さった、仕えるという重要な姿勢を受け継ぐことができません。怠けていては、仕えることはできません。奉仕も、訓練によって練り上げられるものだからです。イエス様が弟子たちの足をぬぐった手ぬぐいは、イエス様の生き方の象徴とも言えます。クリスチャンであれノンクリスチャンであれ他の人々に仕えるとき、私たちはイエス様が模範を示して下さったように、人の足もとにへりくだることになるのです。その低い場所でこそ、私たちは人々の人生から学び、また神様が私たちの地域で、教会で、何をして下さっているかが見えてくるのです。人々の足もとで神様の御業を仰ぐとき、私たちは神様と1つになることができるのです。

C. 共同体での訓練 (仲間といっしょに取り組む訓練)
 最後に、共同体での訓練を挙げますが、これはクリスチャン一人一人を内側から造り替えるものです。これらの訓練は、私たちを一つにしてくれるものです。

1. 告白
 仲間と共に取り組む訓練、第1番目は、「告白」です。初代教会を見てみると、よくお互いに罪を言い表したり、信仰を分かち合っていたことがわかります。自分の内側をさらけ出すことに抵抗がなかったようです。今日の教会では、日々、または毎週のようにこのような告白する、ということはあまり見受けられません。ヤコブの手紙5:16では「互いの罪を言い表しなさい」という教えがあります。お互いに告白し合うことに慣れていれば、安心して告白することができます。集団の中で告白ができるということは、その集団、共同体に積極的に参加していて、そこにいることに安心感を覚え、告白することが自然な、当たり前のことになっている、ということです。違いがおわかりでしょうか。自分を駆り立てて、無理にしようとするのではなく、そのような共同体、グループでは自然に 告白をすることができるのです。

 私は5年生から高校を卒業するまで、カトリックの学校へ行きました。そこでは、列に並んだ後ざんげの小部屋へ入ってこんな風に言ったものです。「神様、罪を犯してしまいましたがどうぞお恵みをお願いします。この前ざんげをしてからもう2か月も経ってしまいました。この2か月の間に、こんなことも、あんなこともしてしまいました…。」 すると司祭がこう祈るようにと言うのです。「マリア様と三位一体の神、万歳」 そうすれば罪が清められると言うのです。そして私は外へ行って、「父なる神、万歳、マリア様、万歳」と祈り、晴れ晴れとした気持ちになったものでした。私は告白をしました。今、その儀式的な行為を思うととても嫌な気持ちになる反面、その本質の部分は尊重したいと思います。それは、多くのプロテスタント教会で欠如してしまっている部分であると思います。

 私たちはどのようにして、告白のできる共同体を作り上げることができるのでしょうか。この霊的な訓練に関し、私たちはもっと真剣になるべきだと思います。私たちの多くは、たった一人で罪に対処していないでしょうか。個人的な隠された罪というのはクリスチャンにとって命取りになりかねませんし、告白することなしには、訓練は得られないものです。告白をすることから得られる大きな利点は、暗闇に隠れていることを明るみに出せることです。闇はサタンの支配下にありますから、罪が闇から出ない限り、サタンの思うままにされてしまうのです。イエス様は光の主ですから、隠れていた罪を告白し、明るみに出すことによって、サタンの支配から抜け出すことができるのです。告白にはそこまでの力があるのです。

2.礼拝
 礼拝もまた、訓練になります。複数の仲間と共に礼拝するとき、またひとり静かに礼拝を献げるときも、私たちの霊がキリストの似姿へと成長するための訓練になります。礼拝とは単なる儀式でも、するべき課題をこなすことでもなく、神のご臨在へと導かれ、その愛によって造り替えられる時なのです。礼拝を、「義務」や「かたちだけ」、「見せかけ」の行為としてしまうのであれば、私たちの人生を造り替えて下さる神の力を失ってしまうことになるでしょう。

3.導き(ガイダンス、助言)
 仲間とともに行う訓練、3つ目はガイダンス、「導き」です。ガイダンス、意見、アドバイス、クリスチャンとしてどう進むべきか等に関し助言をもらうとき、最も良い方向へ進む手助けを得ることができます。大学4年生の時にルームメイトだった友人は、アメリカで牧師をしていますが、今でも私の人生の良い導き手となってくれています。必要なとき、いつでも電話をかければ、彼から良いアドバイスをもらうことができます。人生における重大な決断をしなければならないようなとき、相談にのってもらえる人が何人かいます。あなたにはそのような人生の友がいますか?ガイダンスや導きは、あなたにとってどういうものでしょうか。あなたはたった一人で決断をくだしますか? またはクリスチャンの仲間を通して神様があなたを導いて下さることを求めますか?罪人である私達は人からの助言を拒んでしまうものですが、神によって完全に造り替えられることを求める者にとって、助言や導きは力強い働きをしてくれるものなのです。

4.祝うこと
 仲間と取り組む訓練、最後に挙げるのは私の一番好きな訓練で、それは「祝うこと」です。お祝いも、訓練となるのです。旧約聖書の多くの部分にわたり、神とその御業を祝うことが記されています。神殿もそのために建てられましたし、何千人というレビ人が、神の民の祭りをリードするというフルタイムの職務にしていました。祝日、そして祭りはすべてこのようなお祝いのためにあるのです。神によって完全に造り替えられた者は、神とその御業を賞賛し、祝うことを求めるのです。神は、私達のお祝いの対象に値するのです。

最後に
 2年前、私はオックスフォード大学へ行って夏の神学講座を受けました。オックスフォードの中でもクライストチャーチ校に滞在し、毎日3度の食事もそこでしました。その食堂は、ハリーポッターのホグワーツ魔法学校のロケに使われた場所でした。食堂の真ん中にある、木でできた梁が、ハリーポッターの話に出てきます。しばらく前のことになりますが、このオーク材でできた梁が老朽化し、取り替えの時期がやって来ました。造られてから500年も経ち、腐り始めていたのです。技術者たちはイギリス中をまわって、その食堂の梁として使うのに十分な長さのあるオーク材を探しました。材木屋や工場など、ありとあらゆる場所を調べましたが、見つけられませんでした。2本の梁を繋げるしかないとか、鉄の芯を木でカバーして1本の木の梁に見えるようにしようというアイディアさえ出て来ました。

 そんなある日、建物の管理をしていた作業員が、大学の地下室へ行きました。そして錆びた南京錠のついた、古い箱を見つけたのです。作業員は鍵を壊し、箱を開けてみました。すると中には、その建物の設計図の原本が入っていたのです。最初に手描きで描かれたものです。そこには、最初の設計者のメモも残っていて、ビックリするようなことも書かれていました。作業員は急いで書類をまとめると、学長室へとすっ飛んで行きました。書類を手渡すと、学長は書類を開き、目を通しました。そのメモにはこう書いてあったのです。「おそらく500年後には、食堂の中心にある梁の取り替え時期が来るだろう。」その次の文を読み、学長は驚きました。こうあったからです。「しかし、我々はその準備をしてある。」学長が窓から外を見ると、キャンパス中には樹齢500年のオークの木がたくさん生えているではありませんか!

 神様は、あなたが霊的に造り替えられるよう、必要なものを備えて下さっています。自分でがんばって成長するようになどと、ひとりぼっちにされることはないのです。霊的成長のため、これらの素晴らしい訓練や教えを、御言葉として授けて下さっているのです。主は、備えて下さるお方なのです。

 

特別講演会(2) 「人々を弟子とする」〜一人ひとりの使命〜

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 私がオーストラリアからアメリカに旅行した時のことです。私はシドニーの空港に着いて搭乗手続きをしようとしたのですが、窓口に着くのが少し遅かったようです。窓口の人に禁煙席を取って欲しいと頼みますと彼女が言いました。
「ちょっと遅かったわねえ。禁煙席はもう一杯よ。」ということで私は喫煙席に座る羽目になったのです。機内の後部72列のAという席でした。窓際の席でしたけれども隣には誰もいません。「しめしめこれはいいぞ。これだと肘掛を上げて座席に横になり、15時間ゆっくりして行けるぞ。」そう思いました。でもその時はまだ搭乗手続きが完了していなかったのです。見ると搭乗者がぞろぞろと歩いて来ます。「ああ誰も私の隣に座らなければいいな」、そう思って見ていました。すると一人の男性が通路を歩いて近付いて来ました。

 見るとその男性は赤っ茶けた髪の毛を腰まで伸ばし、同じく赤っ茶けた髭を蓄え、なんと顔中にピアスを着け、おまけに刺青までしています。私は思わず心の中で叫びました。「神様、どうぞ彼が私の隣に座りませんように。」で、その彼はどこに座ったと思います? 何と72のB、私の隣の席ではありませんか。私は考えました。どうやったら彼に福音を語れるだろうか?そうだ聖書を出して読んでみよう。そうすればひょっとして彼が「何を読んでるんだい?」と言って私の信仰に興味をもって話しかけて来るかもしれない。何という意気地のないクリスチャンでしょう。でも考えてみたら聖書は預けた荷物の中ですから飛行機の荷物室です。そこで考えを変えて私はディボーションの本を取り出しました。すると彼は私に話しかけて来ました。「ちはぁ。俺、ブルース。お宅の名前は?」で私は答えました。「私の名前はリッチ。」
 
 やがて飛行機が飛び立って「禁煙」のサインが消えました。すると彼はタバコを取り出しました。一箱どころか1カートンのシガレットです。私はキャンディを取り出しました。彼が言います、「タバコどう?」私はにっこりしながら言いました。「いや結構です。ところでジェリービーンはどうですか?」

 その時客席係が飲み物を配り始めました。私はコークを頼み、彼はウイスキーを注文しました。彼はその後もウイスキーを朝食代わりに、昼食代わりに、そして夕食代わりに飲んだのでした。私は考えました。もしこの飛行機が事故に遭い、火災が発生したら、この男を機外に運び出すのに三日もかかるのではないだろうか。
 
 そこにもう一人の男が現れます。彼は通路を挟んでブルースの隣に掛けました。そして話しかけます。「やあ、僕はトニー。あなたの名前は?」「俺はブルースだよ」トニーが言います。「お目にかかれて嬉しいね。ところで何処まで行くの?」ブルースが応えます。「俺かい。俺は世界中で一番素敵なところ、テキサスに行くのさ。で、あんたは何処へ行くの?」するとトニーが言います。「私はニューヨークへ行きます。そこで聖書の勉強をします。」するとブルースが言います。「聖書の勉強?俺は聖書なんて信じちゃいないね。神様だって信じちゃいねえ。」ブルースがそう言うとトニーが言いました。その時のトニーの言葉をわたしは絶対に忘れないでしょう。彼はこう言ったのです。「あなたが信じないとうその神様のことを話してくれない。そんな神様なら多分私も信じないと思うよ。」トニーはブルースが神様について間違った考えを持っていることに気づいたのです。

 人間は誰でも「神とは何か」と言う神の概念を持っています。無神論者は無神論者なりに神の概念を持っている筈です。あなたが何かを信じないというとき、あなたは信じていないその何かについての概念、考えを持っているはずです。ブルースは本当の神が何かを知らなかっただけなのです。彼は神について不完全な知識しか持っていないのですから、そういう神様なら私だって、あなただって信じようとは思わないですよね。

 そこで私たちは「どうやったら人々をキリストの弟子にすることができるか」、という問題に入りましょう。大切なことは神様の正しい知識を持つということだけではありません。問題はその先です。悲しいことですけれども、私たちの伝道のやり方はそこで止まってしまうのです。私たちは、神様の知識や教会知識によって人は救われると考えがちです。しかし私たちを救うのは「イエスを信じる信仰」、「イエスが流された血潮」です。

 私たちは伝道するに当たって、イエスは神の子であると人々の「知性」に訴えて信じさせようとします。しかし彼らが本当に必要としている体の癒しや心の癒しについて殆ど関心を寄せようとはしません。

 私たちはこれまで伝道を二つに分けて考えてきました。一つは「福音を語ること」です。これは「言葉」による宣教です。二つ目は病人を癒したり飢えている人に食事を与えたりという「人道的な取り組み」です。どちらも神様の働きですけれども、人道的な支援については伝道そのものという見方をしてきませんでした。この世の世界観に影響されているからです。

A. 神の啓示 

1. 特別掲示と普遍的掲示(一般掲示)〜

 神様は啓示をされる方です。神様はすべての真理を啓示されますが、なかでも私たちの道しるべとして特別に啓示して下さったのが「聖書」です。Uテモテ3:16がそのことを示しています。聖書は教会とこの世に対して書かれた聖霊による神様からの特別の啓示です。しかしだからといって、神様が啓示される真理は聖書だけではありません。「すべての真理」が神様から来ます。科学的な真理、社会的な真理、宇宙の真理、数学の定理、地質学の真理、音楽の理論などなど全てがそうです。私たちはこれらの真理を「神の普遍的啓示」と呼びます。

 ローマ1:20は、たとえ異教徒であってもこの世の被造物を見て神を知ることができる、と言っています。そして神様の天地創造の頂点として造られたのが人間です。

 創世記1:27は人間が神様の形にかたどって造られたと言います。ラテン語でこれを「イマゴ デイ」と言います。ですから、クリスチャンであろうとなかろうと全ての人間は神様のかたちを宿しています。このように、神様の真理は聖書と言う形で特別に啓示されるだけではなく、天地創造と人間の創造を通しても啓示されているのです。私はあのブルースからも何がしか神様のかたちを見ることができます。たとえブルースが神様を信じていなくても、です。

2. 神学と科学

 人間は物事を追求する存在として造られました。これは人間としての基本的な機能です。ですから私たちは神様の啓示についても知ろうとします。神様の啓示を追及する研究のことを私たちは「神学」と言います。神様と聖書について研究する人を私たちは神学者と呼びます。では、神の普遍的啓示を研究することを何と呼ぶのでしょうか。そうです、私たちはそれを「科学」と呼びます。

 科学には「自然科学」と「社会科学」とがあります。自然科学には生物学、化学、地質学、数学、物理学、生理学、そして天文学などが含まれます。社会科学には心理学、社会学、文化人類学などが含まれます。多くの人がこれらの科学は信仰と関係ないと考えています。しかし、全ての真理が神様から来ているのですから、これらの科学分野も全て神学の領域に入ってくるのです。なぜなら私たちは神様が与えられた科学的な真理を研究しているからです。

 その意味で「クリスチャン科学者」という言葉はちょっと変な言い方です。何故なら、全ての科学者は神様が与えられた普遍的真理を研究しているからです。多くの教会とクリスチャンが、物事をこのように分割して考えるのは悲しいことです。

 この考え方では、枠組みの右半を「神聖な領域」、左半分を「世俗的な領域」と決め付けます。例えば、説教者は神聖な働きをしているが公認会計士は世俗的な仕事をしている、と考えてしまいます。しかしそうではありません。全ての真理は神様から出ているのですから、公認会計士も神様の数学的な真理を扱っているという意味では神学者なのです。公認会計士も神様の姿を宿すものとして神様と共に、この世で奉仕をしているのです。

 私は長い間この問題を研究していますが、いまひとつ何か足りないものがあるな、と思っていました。そしてある日それが突然ひらめいたのです。別々の領域を一つにまとめてしまう或るものが存在する、というひらめきです。
 
 それが何であるか、皆さん分かりますか。それはイエス様です。

 キリストが天地創造の中心に居られるのです。真実を知りたいと願っている人々に対して、神様は特別の啓示としてイエス様を目に見える肉体という形で与えられたのです。イエスこそ全ての中心に居られる方です。右とか左とかも、上とか下とからばらになっている問題を一挙に解決され方です。この問題は私たちが福音を伝えるに当たって、特に注意すべき問題です。神様はその創造の御業の全てにおいて人々を弟子へと導かれます。右側の人だけ、というようなことはありません。

 伝道を二つに分割して考えるという過ちを多くの教会が犯しています。例えばある教会は慈善委員会と伝道委員会とを設けてそれぞれが別々の問題を取り扱っています。しかし、そうではないと思います。これを理解するには私の大好きなヨハネによる福音書20章21節の言葉が役立つでしょう。主イエスは死の床から復活され、弟子たちに現れてこう仰いました。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

 この意味はこういうことです。父がわたしを遣わされた。これがキリストの受肉、すなわち福音宣教の第一段階です。それと同じように今度はわたしがあなた方を遣わします。これが宣教の第二の段階です。ですからイエス様が手本です。私たちは、イエス様がされたのと同じ方法で宣教へと遣わされます。私たちの福音伝道の手本はパウロでもなければ、原始教会でもなければ、アメリカ人の宣教師でもなければ、素晴らしいオーストラリア人の先生、つまり私でもありません。イエス様こそ私たちの模範です。主イエスこそ信者の模範です。そのためにキリストは天地創造の中心にいまし給うのです。

 したがって、私たちが福音を伝えて人々を導くのは教会ではありません。イエス・キリストへと人々を導くのです。伝道者のところに連れて来るのではありません。「キリストの下に連れて来る」のです。

 もし私たちが人々をキリストへと導くのでなければこういうことになります。
自分が救われたのはイエス・キリストを知ったからではなく、良い教会に来たからだとその人は思い込んでしまいます。キリストが福音であって、教会でも、洗礼でもありません。教会も洗礼も、福音に対する私たちの応答ではありますけれども、福音とはキリストが死んで墓に葬られ、そして復活されたという事実にほかなりません。

 クリスチャンの歩みはそこから出発します。私たちは「キリストの弟子」であって、教会の弟子ではありません。愛の絆を結ぶのは「キリスト」であって、教会ではありません。私たちが先ず自分を委ねるのは「キリスト」であって、教会ではありません。キリストに完全に委ねきって初めて私たちはキリストの花嫁としての教会に生涯掛けて奉仕することができるのです。

 不幸なことに、ブルースのように沢山の人が教会を、これをしてはいけないとか、これをしなさいとかいう束縛でがんじがらめにされた存在だと見ています。また多くのクリスチャンも信仰とは規則や戒律を守ることだと考えています。人々を導こうとする時、規則や戒律を押し付けないよう細心の注意を払わなければなりません。これを「戒律の神学」と言います。

B. 戒律の神学と井戸の神学

1. 戒律の神学

 「戒律の神学」とは、教会と信者をルールや規制で縛ることを言います。それが自分と神様との関係だとなってしまうと、自分の主体性はこれらの規制を守ることにあると考えてしまい、戒律を基準にして他の人を裁き始めます。そしてその裁きは教会のメンバー、他の教会員、他のグループ、そしてノンクリスチャンへと及んでいきます。

 イエス・キリストが来られたのは、旧約聖書時代のユダヤ人のように戒律に縛られた人を解放するためでした。戒律に縛られていると、神様を見上げることができなくなってしまいます。神様はそのような信仰の世界には決していらっしゃいません。

 オーストラリアではアメリカなど比べ物にならない大きな牧場を持っている人がいます。ものすごい財産です。彼らの牧場では何千という家畜が放し飼いになっています。どうやって家畜が逃げ出さないようにしているかご存知ですか。大牧場を垣根で囲むこともできますが、正解は「井戸を掘ること」です。「井戸」があれば家畜は決して遠くへ行ってしまうことはありません。キリストは、神様中心の神学を与えるために来てくださいました。いわば「井戸の神学」です。

2. 井戸の神学 〜それぞれが責任を果たすことへ〜

 規則や戒律という垣根を取り払い、中心にキリストが居て下されば、人々はそこに引き寄せられます。信仰的でない生き方から信仰中心の生き方へと変えられます。「キリスト中心の神学」こそがクリスチャンの生き方です。「キリスト中心の神学」とは私たち自身がキリストを中心に生きることによって、「それぞれの責任を果たす」ことを意味します。

 不幸なことに、私たちは「責任逃れ」を当然とするような文化と社会の中に生きています。責任を他の人になすりつけようとする文化の中で生きています。自分の行為に自分で責任を負うことをしない、そんな世の中に生きています。いつも間違いはあの人のせいだ、そうじゃないでしょうか。人々は問題を教会のせいにし、教会は問題を世間のせいにしています。世間の方は教会が人の批判ばかりするのを聞いて、そんな教会になんか関わりたくないと言って教会を切り捨てます。初代の教会がこの問題をどのように理解していたか。彼らは責任と使命をきちんと理解していました。そしてその使命と責任を誰が担うべきかを知っていました。

 罪の重荷と責任の重荷はいつでも一人ひとりの個人によって担われたのです。イエス様はいらっしゃって私たち一人ひとりのために死んで下さったのはそのためです。なぜなら私の行為と行いの責任は優れて私個人のものだからです。人を非難する時は過ぎ去りました。組織を非難する時は終わりました。家族を非難すると時は終わりました。

 弟子の在り方に関して問題が混乱する原因はここにあります。弟子の在り方に関して言えば、自分の主体的な判断に責任を持つべきであることが分って来たからです。そこで今日はその点をはっきりさせたいと思います。キリストの弟子であるためには、「一人ひとりが自分の使命をしっかりとること」が必要であり、それによって初めて弟子の働きが成り立つのです。キリストがそうなさったのです。

 使徒行伝2章42節を読むと、初代教会では、人々が一致して責任を果たそうとする集団意識があったことが分かります。彼らは使徒の教えを聞き、使徒に従い、共にパンを裂き、共に祈りました。使徒たちが行う業に驚きそして虞を抱きました。信者は一つとなり、自分の財産を売り払って必要な人に分け与えました。彼らは毎日神殿の庭に集まって集会を持ちました。彼らは家でもパンを共に裂き、心を開いて交わり、神を称え、人々の好意を獲得していました。それによって救われる人が続々と群れに加えられたのです。

 これを読むと私たちはどうしても共同体の責任に眼を奪われます。しかし、彼らは「教会に対する自分自身の使命」を明確にしていたことを見落としてはなりません。彼らは自分が教会に対してどういう責任を果たせるかを明確にしていたのです。それがあって初めて教会は成長できたのです。

 もし教会員が、キリストの弟子の使命は誰か他の人が担うのだと考えたら、教会は決して成長できませんでした。もし教会員が、教会が抱える問題についてその責任を誰か他の人のせいにしようとしたら、教会は決して成長しなかったでしょう。

 そこで次にクリスチャンが自分で負うべき使命をどうすればいいのか、教会員を訓練するにはどうすればいいのか、それを教える御言葉を学びましょう。その言葉はTテモテ4:1〜10にあります。特に7節に注目しましょう。ここでパウロは若い伝道者であるテモテに対して、その地方独特の文化から来る問題にどう対処したらいいのかを教えています。ここに出てくる問題はわたしたちが直面している問題とよく似ていて、この聖句はすぐれて現代的な意味合いを持っているのです。パウロはテモテにこう言っています。教会には人の信仰を批判しようとする人が沢山います。彼らの言い草はこういうことです。「私はこのやり方をこの人から教えられ、あのやり方をあの人から教えられた。私はこういう人たちからこういうことを教えてもらった。だから私は結婚を差し控えたり食事を差し控えたりすることは正しいと信じる。」

 彼らは誰かを非難しようとして目を光らしています。誰かに非難をぶっつけようとして待ち構えています。それに対してパウロはそんな非難はどこかへ捨ててしまえ、と言います。7節に注目しましょう。「信心のために自分を鍛えなさい。」

 「クリスチャンを鍛えるのは教会の責任だ」、私たちはそう考えます。しかしパウロは何が必要なのかを分かっていました。彼は言います、「その責任はとことんあなた自身にある」、と。「信心深くなるためには自分自身を鍛えなければならない」、ということです。教会がしてくれるなんて考えてはいけない。

 信心深くなるということは霊的な「現金自働支払機」があって、その機械からいくばくかの霊的なお金を引き出し、ああこれで一週間やっていけるぞと考える、そんなものではありません。教会員がこのような考えを持ってはいけませんし、新しくクリスチャンになった人にはきちんと基本を教えなければなりません。
そして私たちは自分自身の信仰的な決断に責任を持たなくてはなりません。私が天国へ行くか地獄へ行くか、その責任を負うのは私自身しかいません。裁きの日に、私自分の責任を自分の妻や、子供や、教会や、長老や伝道者に擦り付けることはできないのです。アーメン。それはあくまでもあなたの責任です。

 あなたの問題を取り上げる以前に、私自身、山のような問題を抱えているのです。私が自分を救えないように、あなたを救うことも私にはできないのです。私は私自身の救いの重荷を背負っています。そしてもし私がその問題を解決できたらどうなるでしょうか。私の魂は変えられ、その結果キリストの弟子としてあなたの魂を変えるお手伝いができるのです。それが自分の責任を自分が負うことの成果です。それが信仰深くなるために自分を鍛えることの成果です。それによって教会が恵まれ、失われたこの世が恵まれるのです。私が自分の責任を取る時に、この世が変えられるのです。

 教会員一人ひとりがそれぞれの責任を持っていて、その一人ひとりを神様は共同体として呼び出されたのです。私たちはこの共同体の一員として教会に対して果たすべき責任と使命とを持っています。神様の御言葉に奉仕する役割があるのです。

 あなたは人のすることをコントロールすることはできません。私たちができるのは自分の行いをコントロールすることです。あなたは隣に座っている人、あるいは後ろに座っている人をコントロールすることはできないのです。コントロールできるのは自分の行いだけです。そしてあなたがキリストを愛することを誰も止めることはできません。あなたがキリストに従って生きることを誰も止めることはできないのです。私たちが立ち上がって「これが教会で私の果たすべき使命です。」と言うとき、神様はきっとにっこり微笑んでくださいます。

 そこで、信仰を深める訓練とは実際に何でしょうか?信仰を深める訓練について、役に立つ3つのステップを示したいと思います。これが今日の話の核心部分です。人々をキリストへ導くことは全てのクリスチャンの役目です。そのキーワードは「人々をキリストの下へ導く」です。

C. 人々をキリストのもとへ導く

1. 霊的成長の目標を立てること

 霊的に成長することを助ける訓練の第一歩は、「目標を立てること」です。パウロがテモテに語ったあの弟子訓練を本気でやろうとするなら、個人的な成長の目標を立てることをお薦めします。

 これをしているクリスチャンは本当に少ないのです。日常の生活で私たちは目に見える成長の目標を立てることに慣れていません。あなたは今、どのような成長の目標を持っていますか。もし持っていないのなら、目標を是非立ててください。いくつかの例をご紹介します。

 例えば祈りの目標です。あなたの祈りの生活は十分でないかも知れません。だったら祈りの目標を立てましょう。一つの目標でいいのです。最初から馬力を掛けることはありません。あなたの霊的生活は十分でしょうか。十分でなければ目標を立てましょう。信仰を深める訓練をしましょう。あなたが教会の群れの中でその訓練を始めれば、まわりの人達も良い影響を受けます。それによって教会が成長します。それによってクリスチャンの働きが生かされるのです。

 その他の目標として、例えば「人に言えないような罪を克服する」、という目標があります。あなたは人に言えないような罪と戦って、疲れていませんか。もう何年も、何十年もその罪と戦っていて、今やっと、どうしたらいいのかが分かりました。その秘密をお話しましょう。イエス・キリストは自分の罪は自分で処理するようにと言ってあなたに命を与えたのではありません。あなたが罪から解放されるように、キリストがご自身の命を与えて下さったのです。私たちはキリストご自身のように完全な人間になれないことを知っています。でもあなたの罪で克服できないものは何一つないことを信じています。

 1コリント10:13の言葉がそれを示しています。「あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものは無かったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさいません。」

 これが私たちに与えられた神様の約束です。これは罪の問題に王手を掛けるための今週の目標になるかもしれません。その罪はあなたの魂を食い物にし、あなたの霊を衰えさせ、あなたの信仰を押し潰して来たのです。今週その目標を立てましょう。いや、今日やりましょう!教会に行って誰か兄弟に、あるいは姉妹に、言いましょう。「私は訓練が必要です。どうか私と一緒に歩んでください。そして私が確信を持って歩み、ついには罪を克服することができるように見守ってください。」

 そして同じ悩みを持つ人を見つけたら、その人と共に歩んでください。
それがキリストの弟子になると言うことです。それこそあなたの霊的成長の目標ではないでしょうか。それこそあなたに必要な生き方ではないでしょうか。それこそ新しくスタートさせるべき習慣なのではないでしょうか。

 私たちの教会に愛らしい姉妹がいます。彼女は6年前にこのメッセージを聞きました。そして彼女は私のところにやって来て言いました。リッチ、私これまでずっとタバコを吸っていました。でもあなたの話を聞いてもう決してタバコを吸わないと自分に約束しました。この手の話はたくさん聞きますけれども、たいがい一月もすると禁煙をやめてしまいます。1年経った時、彼女がまた私のところに来ました。そしてこう言いました。リッチ、今日で禁煙してから1年たったわよ。今日が禁煙一周年記念なの。「1年だって!」、私は言いました。わたしの説教がそんなに効果があったなんて知りませんでした。彼女は禁煙に成功したのです!アーメン!

2. 霊的な境界線を持つ

 第二のヒント。霊的な境界線を持ちましょう。人々をキリストへ導く時、彼らに霊的成長の目標を持たせることを薦めます。しかし境界線がないとこれらの目標は腰砕けになります。境界線とは、「ここから先に踏み越えてはならない」という信仰上に留まるための一線のことです。成長の目標を成功させるためには、いくつかの境界線を設ける必要があります。境界線があると目標を設定しやすいのです。では霊的な境界線とは何でしょうか。境界線はクリスチャンにとってとても重要です。どういうことかお話しましょう。

 皆さんにとって、本来の使命は何でしょうか。皆さんが家庭のことを考えたり、仕事の事を考えたりする時、あなたの心はどこにあるでしょうか。その時あなたの心を支配しているものは何でしょうか。何があなたの心を立ち止まらせるのでしょうか。霊的な境界線を設定することによって、あなたの心の本来の任務を変えることができるかもしれません。私は、神様の主権を最優先することが心の本来の任務であると考えています。素敵な基準 だと思いませんか?

 私が家のことや仕事のことあるいはストレスに心を奪われていない時は、私の心が解放されて神様のことを考えることができるということです。つまり、パウロが初代教会の人達に対して教えたように、「いつも清く聖なることを考えなさい」、と言うことです。あなたは霊的な境界線が何であるか分かっているわけですから、考えることにおいても霊的な境界線に留まるべきです。

 訓練すれば、あなたの考えはその境界線の中を自由に動けるようになります。あなたが話すことにおいても境界線が必要です。怒りについても同じです。このような境界線を人々にも薦めましょう。

3. 信仰を深める

 第三に、どのようにして信仰を深めるかです。信仰の目標を立て、信仰の境界線を持つことによって、私たちは霊的な訓練(しつけ)を喜んで受け入れることができます。この三つによって信仰を深めることができます。自分をもっと信仰深い人間にすることができます。

 霊的な訓練は目に見える成果を挙げます。今までいくつもの方法を教えてきましたが、今年私が力を入れていることが一つあります。2009年の私の目標は「集中する」ということです。その意味はこうです。

 例えば、礼拝説教の後で会堂の後ろに私は立ちます。私と話がしたい人がいるからです。私も皆さんと話をしたいからです。そこで私はあなたと話をします。その時誰か別の人が私の脇に立っているのを感じます。かれは私と話をしたがっています。そうすると私はその人が何を話したいのだろうかと気になって、目の前の人に集中できなくなります。話していても上の空になります。

 皆さんも人と話しているとき、相手を見て会話をしているのに、心ここにあらず、という経験はありませんか。相手の話に頷いていながら心は別のことを考えている、そんなことはありませんか。BE PRESENT. 集中しましょう。それは問題解決にすごく役立ちます。3歳の子供と話す時、それに集中しましょう。妻と話す時、それに集中しましょう。神様と共にいる時、イエス様と共にいる時、それに集中しましょう。教会を毛嫌いする人と話す時、集中しましょう。

 やることがたくさんあり過ぎる現在の生活環境では、一つのことに集中するのは決して容易ではありません。集中するとは、携帯電話の電源を切ることであり、ステレオやテレビを止めることであり、本を閉じることを意味します。でも集中しましょう。

 この三つの原則に基づいて信仰の訓練をすればその成果は次の通りです。コロサイ3:15

 私たち一人ひとりにキリストの言葉が宿ること。信仰を深めること。そうすると意外などんでん返しがあります。この聖句を読む時、私たちは読み違いをしがちです。私たちはこの聖句を一般論として読んでしまいますが、そうではありません。ここで言われているのは「キリストの言葉があなたの心に豊かに宿るように」、ということです。何故なら、「そうすればお互いに教え合うことができるから」です。何故キリストの言葉が私の心に豊に宿る必要があるのでしょう。それは「他の人を教えることができるようになるため」です。そしてキリストの言葉が宿ることによって、「私たちはキリストの本当の弟子になれるから」です。

 あなたの心にキリストの言葉が豊かに宿るのは何のためですか。なぜ訓練が必要なのですか。それによってあなたが人々を教え、諭すことができるからです。もし信仰を深めるための弟子訓練がなかったら、どうして人々を教え、諭すことができるでしょうか。互いに教え、諭すという働きはキリストの体としての教会でだけ見られるものです。それが相互の弟子訓練です。

 全ての知恵を傾けて教えましょう。感謝しながら神様を賛美しましょう。全てのことを感謝と祈りを持って、神様の御名において行ないましょう。これが信仰を深める訓練の本当の成果です。

 信仰を深める訓練はキリストの御体としての教会に豊な恵みを齎します。マルコ2章に出てくる中風の人の癒しのお話はその典型です。

 2章1節から5節までを読んでみましょう。中風の男は4人の友人に全面的に助けられています。彼らは病人を運んできました。病人は人の助けが必要だったのです。家に残しておいても良かったのに彼らは敢えて病人をイエスの元に連れて来ました。しかし彼らが来て見ると家は人で一杯です。常識から言うと、イエスが話し終えて出てくるまで外で待つということでしょう。しかし彼らはそうではありませんでした。彼らは屋上に上がって屋根に穴を開けたのです。

 どうしようかと議論している中で、4人の中の誰かが、そうだ屋根に穴を開けよう、と言い出し、みんなそれがいいそれがいい、と言ったのでしょう。彼らは権利とか責任とかを考えすらしません。彼らは友人である病人を愛し、彼のためならどんなリスクを負ってもいい、そう考えたのです。

 イエスは彼らの信仰を見て病人を癒されました。もし私たちが本当にある人をキリストに導こうとしたら、リスクを恐れずにその人の寝床を運ぶほどの覚悟を持たなければなりません。

最後に

 私は長いこと聖書は66巻から成ると思っていました。そして大学に行きました。博士号を取り今でも聖書は66巻と信じています。しかし弟子訓練によって私は気づきました。聖書は66巻ではなくて「67巻」です。

 「あなた」が聖書の67巻目なのです。人々がキリストの下に来るのは66巻の聖書を読んだからではなくて、67巻目である「あなたの生き方」を見てキリストを知るのです。キリスト中心に生き、そして聖霊に導かれて生きるあなたこそ、「生きた神の聖書」なのです。

 クリスチャンの務めである人々をキリストに導くという伝道の業に励みましょう。皆さんの働きに神様の豊な祝福がありますように。



9月20日 特別説教
リッチ リトル 兄弟 
「弟子となる」 〜私を知っている神様を知ること〜  聖書箇所 ヨハネによる福音書 10:14

音声はこちらから


 わたしは、ある物について「知っている」ということと、「存在そのもの」の関係に興味を抱くようになりました。「クリスチャンである」ことは、ただ単にキリストに「ついて」知っていることとはどう異なるのか?

 私は、4年前にアメリカ国籍を取りました。私は、オーストラリア国籍も持ち続けることができました。私は、血統をたどれば由緒正しいイギリス人で、生まれからすればオーストラリア人、自分の選択でアメリカ人になりました。これ、結構便利なんですよ。もし飛行機がハイジャックされて、オーストラリア人を探しているのなら、アメリカのパスポートを見せればいい。(笑) アメリカの市民権を得るために、試験を受けなければなりませんでした。この試験では、アメリカについてちゃんといろいろ知っているかどうかテストされるのです。もしテストに落ちれば、アメリカ人国籍がもらえないし、もし受かれば晴れてアメリカ人になれるというわけです。テストを受ける日になりました。10問中、6問正解しなければなりません。そして、6問目の問題の答えが正解したとたん、私はアメリカ人となりました。私は、教会で同じ問題を尋ねてみましたが、全問正解する人はほとんどいませんでした。わたしは、彼らに、「私にアメリカのパスポートを渡して、さっさとモンゴルにでも行きなさい!」と言いました。(笑) 分かりますか? アメリカについて知っているからといって、必ずしも良いアメリカ人であるとは限らない、ということなのです。日本について知っている人なら誰でも、日本人になれるというわけではないですよね。わたしは、トヨタの車に乗っています。でも、それで私が日本人という訳ではないですよね。

 確かに、日本について知っていることと、良い日本人であることには、つながりがあります。だからといって、日本についてたくさんのことを知っていたとしても、イコール、良い日本人であるということではない。イエス様との関係においても、同じ事が言えるんです。イエス・キリストについてたくさんのことを知ることはできる。でも、その知識がわたしたちの人格をイエス様の似姿にまで成長させなければ、その知識には価値がない。それが、私たちを、キリストの似姿にまで成長させなければならないんです。キリストについて理屈の上で知っていることと、キリストのために生きることには、違いがある、ということなのです。

 ですから、今朝は、「弟子となる」こととは、どういうことなのか。「イエス様の似姿に変えられていく弟子」とはどういうことなのか、共に考えていきたいと思っています。ヨハネによる福音書10章14節を開いてみましょう。

イエス様は言いました。「私は羊飼いであり、私は自分の羊を知っている。」でも、キリストは、羊についてただ知っているというのではありません。イエス様は、「わたしは、自分の羊のことを、一匹一匹、詳しく、深く、知っている」、と言っておられるのです。イエス様は、あなたのすべての喜び、すべての悲しみをご存じだ、ということなのです。

 この深く、親密に知って下さっているということからは、ある応答が生まれます。イエス・キリストの側で、応えられたことがあります。羊飼いはこう言います。「私はあなたのことすべてを知っている、では、私は何をなすべきなのか。」羊飼いはその知識に対し、ある応答をされるのです。どのように主は応えられたのか。主はいのちを下さった。主のいのちを、あなたと私のために投げ出して下さった。ですから、知識は、「応答」へと導かれる、ということなのです。

 言い換えるならば、イエス様はこう言われたということです。私があなたと持っている知識と関係、それをあなた方お互いの間でも持ってほしい。イエス様についての縦の知識だけではない。イエス様が言われているのは、羊飼いが羊のためにもっている知識によって、羊同士の関わり方が変えられ、成長していくのだ、ということなのです。私たちが主との素晴らしい関係を持つことができたとしても、もしお互いのことをよく知らないとしたらどうでしょうか?主を知っているからといって、羊同士の関係には、何ら変化をもたらさないことがある。羊飼いは羊のことを深く知っていて、羊も同じようによく羊飼いのことをよく知っている。羊の主への知識は、周りの羊の知識へと広がっていくのです。

 フィリピ3:8で、そのように「広がっていく知識」のことが記されています。ただ知っているというレベルを超えた、さらに上をいく知識があるというのです。私たちができる限りの理解力を持ってしても理解できない知識がある、そのようなイエス様を知る知識には、3種類あります。

 一つ目は、「御言葉」の知識です。私たちがどうイエス・キリストを理解すればいいのか、直接御言葉によって知識を得ること。ほとんどのクリスチャンは、この本を通して、イエス様のことをすべて知ろうとする訳です。ここで、小さな秘密をお証ししましょう。この本は、神ではありません。この本は、本に過ぎません。この本は、神の霊の導きによって記された啓示ですが、神ご自身ではないのです。この本は、神様のご人格を知ることのできる小さな窓ではありますが、神様の全容、全部を知ることはできないのです。なぜなら、人間の言葉で、神についての全てを書き記すことは出来ないからです。この本が神のすべてについて書き記すことができると言うのであれば、それはまるで、どこまでも続くような世界で一番広〜いビーチに行って、そこから砂を一粒拾い、「この手の中にビーチのすべてをつかんだ!」、と言っているようなものです。それはまるで、手に聖書を持って、「神について知りうるすべてがこの手の中にある!」、と言っているようなものです。これは、神様が私たちに現そうと選んで下さった、ご自身の一部に過ぎないのです。神のすべてを知ることは、世界で最も優れた頭脳をもってしても、不可能なのです。ですからこの言葉は、神の知識が人に現された一つの手段にすぎない、ということなのです。

 「創造」を通しても、神はご自身を示されます。これが神を知る方法の2つ目です。パウロは、ローマ1:20で、異邦人でさえも、被造物を通して神を知ることが出来る、と言っています。そして、神の創造について深く知り理解していれば、神の御業が更に良くわかるようになるでしょう。宇宙の神秘は、神の神秘を言い表しているという説教を聞かれたこともあるでしょう。大宇宙の被造物を通して、イエス・キリストを知ることができるんです。

 3つめの知識は、「キリストのからだである教会」を通して得ることのできる知識です。私たちは、御言葉を通してだけでなく、創造を通しても、キリストのからだである教会を通しても、イエス様について学ぶことができる。以上が、イエス・キリストについて学ぶことが出来る3つの手段です。他の方法はありません。しかし、被造物を通して神を知ることがあっても、キリストのからだである教会との関係がないなら、神の声の3分の1を聞けないことになります。神様は、「あなたを通しても」、神様について教えようとしておられるのです。この教会で、あなたが神の御言葉を語っていくことで、教会が成長していくことを願っておられるのです。

 そして、私たちを「成長させてくれる知識」とは、@御言葉、A創造の業、Bキリストのからだを通して、イエス・キリストを知り、その結果として、私自身が「変えられる」、「成長していく」、ということです。2コリント3:18を見てください。パウロは、成長のプロセスについて、語っています。もしあなたがキリストにあって成長しているなら、あなたは同じ所に留まってはいないはず。一年前の自分と、今日の自分は同じじゃないはず。もし1年前と変わっていないとしたら、それは問題ですね。だれの似姿に造り変えられる、と言ったでしょうか?私たちは、主の霊の働きによって、「主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられていく」んです。

 私は、10年前に比べて、霊的にずいぶん変えられてきたので、顔つきも変わってきたと思います。クリスチャンとしても年齢を重ねるほどに、その成長が見た目にもわかるようになりたいと思いませんか?あなたの信仰の状態を、まるで顔のように見ることができたとしたら、どんなふうに見えるでしょう。赤ちゃんのようでしょうか。ティーンネージャーのようでしょうか。それとも成熟した、大人のクリスチャンの顔でしょうか。イエス様に従おうと、初めて決めたときから、5年、10年、15年経って、キリストにある信仰によって、違う自分になっていなければなりません。同じ自分のままであるならば、その知識に何の意味があるでしょうか。それは、単なる理屈で終わってはいなかったか。聖書に精通していても、良いクリスチャンになる必要はないのか、それとも、あなたの存在そのものを造り変えてくれる知識なのか。信じていることや教義を変えることを言っているのではないのです。それらはすべて、表面的なことに過ぎません。もっと深いところで造り変えられることについて言っているのです。人格が造り変えられること。他の人へどう反応するのか変えられること。罪ある生き方が変えられること。どう人を愛するかが変えられること。生き方が変わると、見た目にも分かるようになるはず。それが、成長のなせる業だからです。見た目にも分かるほど、成長したいと思いませんか?

 先程の話に戻りますが、「羊は、お互いを知っている」、と言いました。1コリント12:21からを見て下さい。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」と言っています。必要な部分は、なくてはならないもので、必要でない部分は、特別な配慮が必要だということです。見栄えの良い部分は、特にケアは必要ないですが、しかし、神様は、からだをつなぎ合わせ、弱く見える部分こそがかえって必要だとされる。そうすることで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合うようにされたのです。

 パウロの言っているキリストのからだのイメージは、お互いに親密に知り合う、共同体です。一部の方々が喜ぶなら、私はその方々を知っているので、私はその方々と共に喜ぶ。もしお互いのことをよく知らなければ、パウロが1コリント12章で言っているような、教会ではないでしょう。キリストを象徴する「からだ」となる必要があるのです。

 ですから、もしキリストのようになりたいのなら、お互いを知らなければならない。キリストが私たちのことを深く知っているように、私たちもお互いを深く知らなければならない、ということなのです。あなたが知り、愛し、信頼している兄弟姉妹と、透明な関係を持とうとしてください。親しくしている兄弟姉妹に対し、あなたは自分の弱ささえも、さらけ出すことができますか?そうすることで、羊飼いの大きな愛を現すだけでなく、弱い羊同士としても、お互いに愛し合うことができる。それが、弟子となることではないでしょうか。イエス様を「頭の中だけで」理解することに終わらず、その知識が霊的な信仰を成長させて、兄弟姉妹を愛し合う生き方に変えられていくことをお祈りします。

 イエス様を知っているということが、あなたの人生をどのように変えていくでしょうか。イエス様との関係は、今週、あなたの生活にどのような影響を与えるでしょうか。あなたの生き方と、あなたが関わる人々に、どのような変化をもたらすでしょうか。ビール会社が、新しい製品を次々と生み出すことが出来るのだったら、私たちもまた、十字架の上で、あなたと私のために死んで下さった神様によって、新しく生まれ変わることができるはずです。

 私がハーディング大学時代の頃、その地方に大地震が来るという予報があったことがありました。オーストラリアには、地震がないので、私はとても不安になりました。なので、できる限りの準備をしました。逃げ方、何を着るか、窓を避ける、頑丈な家具の下に隠れる、等のことは知っていました。その日がついに来ました。何が起こったと思いますか?何も起こらなかったんです。何も! みんな、がっかりしました。ビルの一つくらいは倒れたらよかったのに。(笑) ドアの近くで、三日間寝泊まりをしていた女の子さえいました。どうして、このようなことをしたのでしょうか。ドアの近くが一番安全な場所だから、という人もいます。皆さんがどうかは知りませんが、私が見たことのある地震の被災地の様子はというと、全部ぺっちゃんこになっていました。ですから、私たちは6か月かけて、実際には起こらない地震のために、一生懸命準備していた。しかし、確実に起こるんだと、私たちが知っていることがあります。イエス・キリストがいつの日か戻ってきて、弟子たちを連れて、天の国に戻られる、とういうことです。それは、単に「頭で」信じているだけの者ではなく、イエス様と出会ったことで「永遠に変えられた」人々のことです。皆さんが、そのような人々の一人であることを望みます。

9月27日
恒枝 篤史兄弟 「成熟を目指す教会」 〜ミルクから堅い食物へ〜
 聖書箇所 1コリント3:1-9

音声はこちらから



 「困難なときに平安でいるなんて無理だ。」「クリスチャンなのに、人を愛そうとしても愛せない。」「自分が苦手なタイプの人を愛そうなんて、とんでもない!」 そう、考えることがしばしばあるのではないでしょうか。その結果、「自分にはできない!」「自分はなんて愛のない人間なんだ」「なんて意志が弱い人間なんだ」、と落ち込んでしまう。でも、よく考えてみると、「当たり前」なのです。できなくて、当たり前なのです! 私たちが努力したり、頑張って、歯を食いしばって出来ることではないのです。頑張る人は、自分の限界を知らされるだけなのです。それはなぜか。それは、聖書によると、「愛」とか「平安」とか、「喜び」とか「忍耐」というのは、実は初めから自分に備わっているものじゃないからなのです。

 聖書によると、喜びや平安、人を愛すること、すべては、「御霊の実」なのです。(ヨハネ15:4-5、ガラテヤ5:22) つまり、喜びや平安、人を愛すること、これらは、神様と「つながっている」ことによって、「結果」として神様から頂く、「神様からの贈り物」、神様からの一方的なプレゼントなのだ、って言うことなのです。ですから、最初に、「祈る、礼拝する、神様により頼む」、ということがあって、その後に、結果として、「平安が来る、喜びが来る」、という順序なのです。平安や喜びは、あくまでも「結果」なのです。

 1コリント3章6節に、「成長させて下さったのは神です。」という言葉が出てきます。ここで、「成長させる」という言葉には、現在完了形が使われています。つまり、継続を表す言葉です。神様は、あなたがたを、ずっと成長させ続け、今もさせて下さる。それは、神様以外に誰でもない、ということを、パウロは言いたかったのです。ですから、私たちは、成長するためには、成長させて下さる神様ご自身につながる必要があるのです。

 パウロは、1コリント3章で、成長にはステップがあることを教えています。「乳ばかり飲んで固い食物を食べられない人」(3:1-4)というのは、いつも「自分がもらうことばかり考えて、他の人々に与えることをしない人」、という意味です。もちろん、だれでも、受けること、もらうことから始まりはします。ですから、クリスチャンになったばかりの人は、神様や人から、たくさんもらうことをお奨めします。また、たくさん学んで下さい。でも、いつまでもそこにいるのではない。次のステップは、「もらったら、与える」、ということです。

 子供は自分のことも十分にできないのでお世話してもらう必要がありますが、成長すると他の人のお世話ができるようになる。教会も、お世話してもらい、教えてもらうところから始まりますが、成長すると、他の人との関わりを喜び、またお互いに助け合っていくようになる。これが、「教会の成長」ということなのです。

 成長には時間がかかります。しかし、「千里の道も一歩から」です。初めの一歩が、後で振り返ると、大きな違いを生み出します。私たちは、キリストにあってどこまで成長することができるのでしょうか。私たちは、イエス様の似姿まで成長することができるのです。パウロは、成長させて下さるのは神だから、そのお方を見上げて欲しい、とコリントの教会の人たちに心から願ったのです。私たち水戸教会。ぜひ、お互いが助け合って、キリストの似姿になるのだ、というビジョンを持ちましょう。「成長してほしい」というのは、主ご自身の願いです。

 

 


 

 

 

 

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