3月7日
恒枝 篤史 兄弟 「目を開けてみれば」 マルコによる福音書 8:22〜26 証し ウェード・ミラー 兄弟
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今日の聖書箇所、マルコ8章に登場する盲人も、最初は、はっきりと見えなかった。ぼんやりとしか、救い主のことが分からなかった。でも、25節では、こう書いてあります。
「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」(マルコによる福音書8:25)
大変、象徴的な出来事だと思いませんか。最初は、救い主のことがぼんやりとしか分からなかった。でも、イエス様に直接、目に触れていただいて、救い主のことがはっきりと見えるようになったんです。
ウェードさんも、今日の証しの中で、こういうことを言っておられました。最初は神様の恵みに気づかなかった。「もらう」ことしか考えていなかった。自分中心だった。でも、目を開いて現実を見てみたとき、すぐそばに、たくさんの愛溢れるクリスチャンの奉仕者たちがいて、具体的に助けてくれていた、励ましてくれていた、神様がたくさんの恵みをすでにくださっていたんだ、ということに気づいた訳なんです。
私たちも、これまで悩んだり、救いを求めてきた。でも、実は、私たちの目の前に、イエス様はもうすでにおられたんです。目を開いてよく見てみれば、神様はいつだって私たちから離れずにいるし、必要な恵みをすべて与えて下さっている。問題は、それに気づかないこと。気づかないから私たちは辛いんです。
神様はそんな私たちにご自分の愛を気づかせようと最大限の努力をしておられます。一人一人に、あらゆる方法でちゃんと語りかけ、きちんと見せて、ご自分の愛を現して下さっている。あらゆる現場で。あらゆるキリスト者を通して。
いつだって、神の恵みは、今ここにある。皆さんに見つけてもらうのを待っています。今週も、しっかりと目を開いてまいりたいと思います。
3月14日
恒枝 篤史 兄弟 「一番最後に残るもの」 コリント人への第一の手紙 3:10〜13
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私たちはいつ死ぬかは知りませんが、いつか必ず死にます。やがて私たちは、天国に行き、主の御前に立ちます。イエス・キリストを信じれば、その人の罪は赦されます。ですから、信仰が、火で試されることはありません。しかし、その「報い」は違ってくるのです。
「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイ16:27)
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(2コリント5:10)
聖書は、最後まで残るのは、信仰と希望と愛でしかない。ほかのものは、全部なくなってしまう。その中で一番優れているのは愛だ、と言っています。
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(1コリント13:13)
「たとえ・・・あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(1コリント13:2)
たとえ小さくても愛を込めて何かをするなら、その私たちの行為はいつまでも神様の前に覚えられているんです。神様が評価して下さるのは、そこに、「たとえ一滴でも、愛が入っているかどうか」です。ですから、どんなにたくさんの奉仕をしようとも、そこに愛が入っていないなら、何にも意味がない。すべて燃え尽きてしまう。最後の日に、主の御前で、どんなに、胸をはって、「ほーら、神様、この自分はこんなにすごいでしょ」、と威張ってみたところで、愛がないなら、主の御前に何一つ覚えられることはない。しかし、そこにもし愛が入っているならば、永遠に残るわざとして、永遠に残る奉仕として、神様の御前に覚えられる、ということなんです。
私たちは、遅かれ、早かれ、死を迎えることになります。皆さんご自身の人生の最後には、何が残るでしょうか。やがて来る終わりの日に備えて、天にたくさんの宝を積んでいるでしょうか。やがて主イエス様にお会いしたときに、「よくやった。忠実なしもべよ」と言ってもらえる、本当に愛のこもった働きをしているでしょうか。私たちも、「自分の人生は、無駄ではなかった。」、神様から、「よくやったね」、と言われる人生を送りたい、と思います。
3月21日
広瀬 正 兄弟 「献げる」 第2コリント 9:6〜12
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3月28日
マーク・ハンコック 兄弟 「パンだけでなく」 ルカによる福音書 4:1〜13
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