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11月の礼拝の説教です
 

 

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11月1日
恒枝 篤史兄弟 「人が独りでいるのは良くない」 
聖書箇所 創世記2:18

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  心の奥深くで、私たちはとてつもなく孤独で、とてつもなく寂しい。魂の奥深くで、私たちは、だれかに知ってほしい、だれかに愛されたい、と叫んでいるのではないでしょうか。くっつきたいし、くっつかれたい。愛したいし、愛されたい・・・でもこわい・・・でも本当はさびしい、愛されたい・・・。この親密になりたいという渇きと、親密になることへの恐れ。この、人の中の相反する思いは、どこから来ているのでしょうか。

 実は、理由があったのです。創世記2章で、神様は、アダムとエバに、「善悪の知識の木からは食べてはいけませんよ」とおっしゃられました。しかし、彼らは、言われていた木の実を取って、食べてしまうわけです。アダムとエバは、それまで裸で、自分のことをさらけ出しても、互いに恥ずかしいと思わなかったのですが、それ以降、いちじくの葉で、お互いから隠れるようになってしまった(創3:7)そして、お互いから隠れるだけでなく、彼らは、神様からも隠れてしまいます。(創3:8、3:10)

 男性も女性も、人は、神を恐がり、そして、お互いを恐がるようになってしまった。神から離れ、人から離れてしまった。これが罪の始まりです。この世にある様々な問題のはじまりです。しかし、それは、神様がもともと人を創られたときに望まれていたことではありません。

 創世記1章から2章にかけて。そこでは、世界がどのように創られたのかが記されています。神様は、創造を繰り返される度に、言われました。「神は言われた。・・・そのようになった。・・・神はこれを見て、良しとされた。」ここまでは、すべてが良かった。ところが、創世記2章18節で、神様は言われます。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

 この時点では、まだ罪が入っていない状態です。しかも神が人とおられた。創造されたばかりの人間は、罪のない完全な状態だったにもかかわらず、「独り」だった。そして、「人は独りでいるのは良くない。」と神様が言われた、ということなのです。このために、神様は、アダムのほかに、エバを創られた。自分自身だけでなく、他の人々を造られた、というのです。

 創1:26−27 「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」

 「われわれ」とは、父なる神、御子なるイエス、聖霊の、三位一体の神です。そのお一人にして三人のご性質をもたれる三位一体の神のかたちに、男と女を創造されたのです。

 次に、ヨハネの福音書の17章を開いてみましょう。この章は、これからいよいよイエス様がユダに会って、連れて行かれて、十字架に向かおうとしておられる時の、イエス様の最後の言葉です。ですから、この章は、イエス様の遺言のように、イエス様が伝えたかった大切なメッセージを含んだ言葉、と言える箇所ですね。イエス様は、弟子たちのために祈ります。

 11節 「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」

 21節。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」

 イエス様は、この私たちが、父なる神、イエス様、聖霊様の間に見られる、三位一体の完全な関係を体験することができると言っておられるのです。この三位一体の神様の完全なる関係を、私たちの間で見ることができるようになること。― これこそが、イエス様の祈り、イエス様の夢だったんです。そして、その関係は、その周りの世に影響を与える、とイエス様は言われています。

「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(21節)

 神様が、私たち教会に求めておられること。それは、本物の共同体を、喜びをもって体験すること。神様と一つであることを経験し、私たちがお互いに一つであることを体験することです。この両方の関係が平安に保たれるとき、私たちは何ともいえない幸せに満たされた気持ちになるでしょう。当たり前のことです。なぜなら、地上における人との交わりも、三位一体の神という共同体の交わりの喜びから来ているからなのです。すべての人は、その交わりの中に入るように、その交わりの喜びに生きるように、神様から招かれているのです。

 神様は、あなたに、独りで生きることではなくて、心と心の通い合った、神様の関係、他の人たちとの関係を求めておられます。そして、神様が、私たち教会に求めておられることは、「本物の」コミュニティ、「本物の」共同体を建て上げることです。心満たされて、心が喜びに満ちあふれて、周りの人々に「行ってみたい!」と思っていただけるような、キリストの愛あふれる教会、キリストの命と臨在あふれる教会を、目指していきたいと思います。

 

11月8日
ジョエル・オズボーン 兄弟 「意図的な関係を築く」 
聖書箇所 申命記 6:1〜9

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11月15日
マーク ・ハンコック 兄弟 「ともし火を灯す」 
聖書箇所 ルカ 15:8〜10

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11月22日
恒枝 篤史兄弟 「ノアの箱舟」 
聖書箇所 創世記7:1〜5

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 ノアの箱舟。

 地上の人間も生き物もすべて大洪水によって滅ぼされ、ノアが造った箱舟に乗った八人の人間と動物たちだけが生き残りました。ノアの箱舟が、全地が洪水で滅びようとしている時に、その中だけは安全で、ほっとできる唯一の場所でありました。今世の中がまるで洪水のように生きづらい価値観で私たちを脅かしている、そんな時代に、「ここに行けば自分は自分のままでいいんだ。どんな自分でも安心してここにいられるんだ。」、そう感じられる場所がどれだけ必要とされていることでしょう。

 そういう意味では、本当は教会自身が「箱舟」じゃなければいけないんです。すべての教会がノアの箱舟のようでなければならないのです。

 皆で助け合って、乗り込んで、ここまで来ればもう大丈夫、というそんな箱舟。本当にチームとしてつながる教会を生きていて、たくさんの方々が、イエス様を「あなたこそ救い主」と言う手助けができる、そんな箱舟。

 箱舟の中に、仲間たちみんなで入って、外がどんなに大変でも、協力し合って航海を続ければ、いつか神の国にたどり着ける。いつか、真の安らぎと平和の地にたどり着ける。そう信じて、皆で航海を続ける箱舟。そんな尊い箱舟に乗って、試練の日々を「共に」過ごす。私たちの人生が、そのような「神の国への航海」でありますように。

 そして、箱舟はいつの日か必ず、雨もあがり、晴れ渡った日に、目的の地にたどり着くのです。

 

11月29日
恒枝 篤史兄弟
  「一粒の麦、もし死なば」 聖書箇所 ヨハネ12:20〜26)  証し 鈴木 博之兄弟

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「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯(ただ)一つにて在らん。もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし。」(ヨハネによる福音書12:24 文語訳)


 これは言うまでもなく、御自分の十字架での死を、「麦」にたとえて語っておられるところです。イエス様は一粒の麦としてこの世に来られました。麦が地面に落されて、真っ暗な所に、地面の下に埋められてしまう。それは埋葬に似ています。しかしそうすることによって、やがて芽を出し、成長し、やがて多くの実を結ぶことになるのです。イエス様は、自らを献げて、すべての人を生かしました。そして、ご自分が死んで、すべてを神様に献げきることで、永遠の実が実ることを知っておられたのです。

 このイエス様の生き様は、私たちが豊かな実を実らせるために、二つの大切なことを教えてくれます。

1.死ねば生きる。生きようとすれば死ぬ。

 一粒の麦は、小さくてみすぼらしいものです。しかし、多くの実を結ぶことができる無限の可能性を持っています。一粒の麦は、実を覆っている殻を破らなければ、芽を出して、実を実らせることはできません。さなぎも殻を破らなければ、蝶になることはできません。同じように、私たちが新しい復活の命に生きるためには、まず古い自分に死ななければならないのです。古い自分の生き方に固執していたのでは、新しい命に生きることはできないのです。

「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:4)

神様の命に生まれるために、古い自分に死ぬこと。それが、バプテスマです。今まですがりついてきたもの、それで自分を救おうと思ってきたもの、とらわれて離せないでいるもの。そんな、自分を今まで縛って閉じこめてきた厚い殻を、すがすがしく破る。それは、恐いことですが、死ななければそのままだった種が、死んで発芽して、多くの実を結ぶという喜びは、バプテスマの喜びの本質です。

2.自分の思いよりも、神様中心に生きる

 そして、この「一粒の麦が地に落ちて死ねば」という死は、単に生物としての死の話ではありません。
愛による自己犠牲の話ですし、自分自身のプライドを捨てることや、自分自身の利己心を放棄することでもある。まさに、そこにこそ、神の恵みが実る、ということなのです。

 

 

 

 


 

 

 

 

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